酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

世界を革命する力

辞書に載せたい言葉シリーズ その2

 

誰に通じるわけでもなく自分だけのために使っている語彙ってあると思うんですよね。これは元々『少女革命ウテナ』用語ですが。

「気高き城の薔薇よ…私に眠るディオスの力よ…主に答えて今こそ示せ… 世界を!革命する力を!」

というあれですが。

 

ウテナ様!

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以下Wikipedia少女革命ウテナ』のページから引用

生徒会室内で様々な演出が行なわれるようになったのは、第5話で錦織博が林檎をウサギに変えたことが機であるという。橋本カツヨはこれを、たった2枚の絵で、世界を革命するという行為の本質を暗示して見せる演出だと高く評価している。”

(ちなみに橋本カツヨってのはウテナに参加してた頃の細田守の別名義です)

 

僕が「世界を革命する力」という言葉で表したいのはこれ。

一見すると現実の法則に則っているかのように見えるフィクション作品が、現実のしがらみ(物理法則、常識、社会的ルールなど)から解き放たれて飛躍する瞬間に働く、まるでフィクション自身が自らの虚構性を声高に叫ばんとするかのようなエネルギーのこと、またはその瞬間のこと。

というのが大体の僕の定義。

 

これはなにもモンタージュだけに宿る力ではないはず。たとえば、J.L.ゴダール『ウィークエンド』の一度観たら忘れられるはずもない車の横移動の1シーン1カットが、世界を革命する力でなくて何であろうか。思えばヌーヴェルヴァーグの果たした役割というのは、「映画がフィクションである以上、スクリーン上において、ある瞬間のその次の瞬間にはあらゆることが起こりうる」ということの(再)確認だったと理解しているが、まさにそれこそが世界を革命する力と呼ぶべきものである。そして、はじめは編集や脚本によって行われていたその革命が、純粋な運動によって示されたということが、『ウィークエンド』が60年代のゴダールの到達点たりえている理由ではないか。(この辺めちゃ適当なこと書いてます)

他には、黒沢清の映画なんかは完全に世界を革命する力がダダ漏れしているし、『マリアンヌ』なんかも小気味よい革命を感じられた。世界を革命する力はあらゆるディテールに宿りうる。

定義上、映像だけに働くとは限らないし、漫画などでもたまにある。ただ漫画は元からフィクション性が高すぎるので映画よりは数が少ない気がする。アニメも同じ。演劇には(もしかしたらかなり頻繁に)あるだろうと思うが、演劇はほとんど観たことがないのでわからない。

 

ちなみに、世界を革命する力の反対の現象というのも僕の中にはある。つまり、徹頭徹尾虚構であるはずのフィクション世界やその一部が、突然なまなましさをもって受け手に迫ってくる瞬間のこと。例は『東京上空いらっしゃいませ』のクライマックスのパーティーシーンや、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』5巻の最後など。こっちはフィクション→リアルなので漫画でもよく現れるんだな。これは試しに「絶対運命黙示録」とでも呼んでみようか(要検討)。

 

ともかく世界を革命する力や絶対運命黙示録が印象的に出てくる作品は大抵大好きになる。(この字面だけ見るとウテナ以外の何物でもない)

世界を革命する力→絶対運命黙示録→世界を革命する力→絶対運命黙示録 みたいな往復ビンタ作品もたまにあって、そういうのは本当に最高の気分になる。