酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

WALKING IN THE RHYTHM 映画と音楽

20xx年4月上旬、近年よりも遅咲きの桜の花が未だ枝をしならせる頃、『マインド・ゲーム』以来となる湯浅政明の劇場長編作品『夜は短し歩けよ乙女』が公開された。この記事は、FISHMANSの名曲『WALKING IN THE RYTHM 』を題に、『夜は短し…』から、かの黒沢清の初期の大傑作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』へと横断しようという無謀なる試みである。

 

「楽しいことだけ 知りたいね」と佐藤伸治は歌う。佐藤伸治とは他ならぬFISHMANSのボーカルギター担当のフロントマンである。

一方で『夜は短し歩けよ乙女』に主人公として登場し、その愛らしさと無邪気さによって我等読者を夢中にさせる黒髪の乙女は、“オモチロイこと”に引き寄せ吸い寄せられるようにして、数多の大冒険活劇を演じるのであった。

楽しいことだけ知りたい! オモチロイことだけを追い続けたい!そう、それは人類の行きつくべき理想ではないか。隣の国も隣の街も隣の人も、つまり政治も社会も恋も友情も、それがオモチロイ範囲の内においてのみ存分に享受する。彼女の言葉を借りれば

「なにしろ、それまでの私はほかのオモチロイことに無我夢中、男女の駆け引きにまつわる鍛錬を怠ってきたからです。」

 

※『夜は短し歩けよ乙女』は「君」と「僕」の関係性を世界全体へと昇華させているという意味で、ある種典型的なセカイ系作品である。すなわちここで言う「男女の駆け引き」とは、世界全体におけるあらゆる関係性の見立てとするべきであろう。

 

湯浅氏の映画化は見事ではなかったか。時間の流れを意識した改変、映画が他の何より時間を司る芸術であることに基づいた演出が印象に残る。しかしそれにも増して氏の最大の功績は、黒髪の乙女の歩調をスクリーンに映し出したことに他ならない。

 WALKING IN THE RYHTHM、リズムにのって歩くこと。音楽を前へと進めるのがリズムであるのと全く同じ理屈で、音楽と同じく時間に制約され、その対価として時間を操る魔法を使うことを許された映画を突き動かすのは、黒髪の乙女のずんずんとした歩調に他ならないのだ。

「この胸のリズムを信じて / 歌うように歌うように歩きたい 」

とは彼女のことを歌っているに違いない。黒髪の乙女が夜の京都の街をすいすいと、あるいはずんずんと歩き、ときには軽やかに駆けてゆくとき、他のキャラクターも小道具や背景までもが連動して、想像力豊かなアニメーション的喜びに満ちた動きを展開する。

その動きと動きがやがて線になって、人物を繋いでいくというのは原作の主題である。しかし湯浅氏はそこへ更に相対的な時間という極めて映画的なモチーフを追加している。黒髪の乙女と老人たちとで進み方の違う時計。老人たちの時間は矢の如く過ぎ去っていく。しかし我らが黒髪の乙女はその歩調によって老人たちの時間の流れをも気ままに規定し、出会った老若男女の全員を引き連れて李白氏との飲み比べへと行き着くのだ。

 

さて、それでは話題を『ドレミファ娘の血は騒ぐ』へと移してみよう。『神田川淫乱戦争』に次ぐ黒沢清の第2作。その主人公であり、当時20歳そこそこでデビューしたての洞口依子演じる秋子の佇まいの素晴らしいこと!ひとことで言えば、彼女もまた、映画の秘密の魔法を許された黒髪の乙女なのである。はっきり言って私には、『夜は短し』と『ドレミファ娘』を並べた言及が全く見当たらないのが不思議でならない。謎のミュージカルシーンまで類似しているというのに!

舞台は新歓期の大学、構内に入っていく秋子を捉えたオープニングのロングショットだけでも彼女が特別な存在であることがわかる。凡百のゴミ以下大学生どもが新入生と思しき人物に手当たり次第声をかけるなか、彼女はそれら群衆を意にも留めずに美しい姿勢で迷うことなくまっすぐ左から右へ歩いていく。彼女が目指すのは吉岡という高校時代の憧れの先輩。しかし大学の奥へ入っていくごとに、堕落した大学生(=彼女にとってのオトナの世界)を目の当たりにし… という、『夜は短し』の逆というか裏のようなプロット。

そして何より、この作品は極めて音楽的な映画である。「人を感動させるのは音楽だけである。なぜなら絶対的な音が関係性と切り離されて存在するからだ。」というようなセリフが出てくるが、この映画まさにそういう映画なのだ。初期黒沢清のキマりすぎというくらいキマった尋常じゃない強度のショットは、強すぎる故に映画から独立してしまうかのようにさえ感じられる。その独立した絶対的ショットの連続はドラマから乖離したそれ自体によって、さながら音符が連なった音楽のように、「黒沢清の映画」というリズムと調性を我々観客にまぎれもなく感じさせる。そして、その「黒沢清の音楽」を紡ぎ出す原動力は、秋子が大学の奥へ奥へと踏み入っていく美しい大股の歩調に他ならならず、まさに彼女の足取りによって映画そのものが動いていくのである。