酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

『それでも町は廻っている』と周回遅れの僕

みなさんご存知ですかねえ〜〜すごくおもしろい漫画があるんですよね〜〜〜『それでも町は廻っている』っていうんですけどね〜〜 知らない??知らないか〜〜〜そうか〜〜そうだよねえ〜〜〜

 

 周知の通り、石黒正数それでも町は廻っている』は昨年末に雑誌上で完結、今年2月に最終16巻が発売された。もっとも、作品の面白さについては議論の余地がないのでここで述べることはしない。

問題となっているのは、この漫画をあろうことか最終巻発売の半年後、今年8月から買い始めた僕のことである。

 

石黒正数のことは知っていた。『外天楼』とか短編集は読んだことあった。『それ町』が連載していることも知っていた。アニメ化したことも知っていた。でも読んでいなかった。

それなのに、『それ町』完結のときに、ファンがお祝いムードで盛り上がっているのを見て、「へえそんなにみんな好きなんだ 読んでみたい」と思って、更にしばらくしてからブックオフの100円コーナーで見つけた1〜8巻をまとめ買いする始末。ここまで来てようやくめちゃくちゃ面白いことに気づき、続きはブックオフで買ったり、ブックオフにないやつは新品で買ったりしているのである。そして先日ようやく最終16巻に追いつき、「それ町が終わってしまった!それ町ロス!」などとのたまっている。どうでしょうかこの有様。

 ブックオフで買うのは自分ルールで「新刊はちゃんと新品で買う 既刊は中古でもいい」ということにしているためで、そうしないと僕の財力ではいろんな漫画が読めなくなるので許してもらいたいのですが、それはともかく、僕は昔から周回遅れだった。

たとえば最近だと『キルラキル』とかも、放映当時から評判がいいことは知っていた上で、ずっといつか観ようと思っていたのをやっと観て、それで図々しくもベスト10とかに入れているわけである(過去記事参照)。どうしてこういうことになるのか。

 

ひとつには、持ち前の基礎的な生活力の欠如ゆえに、毎週(毎月)何かコンテンツを追いかけるというのがものすごく苦手だというのがある。

毎週楽しみにアニメやドラマを観る、漫画雑誌を買うみたいなのを生活の楽しみするというのは人生を豊かにするための有効手だと思うが、僕はほとんどできない。子供の頃から、コロコロもジャンプも一度も買ったことがない。漫画雑誌を買ったのが、こないだスピリッツで阿部共実先生の超絶大傑作『月曜日の友達』の連載が開始したときがはじめてだ(隔週連載にもかかわらず、結局続かなくて単行本派になってしまった)。毎週観ているドラマやアニメはそのときどきで無くはないが、録画しておいて何話かまとめて観てしまう。

 もうひとつは、無数にあるコンテンツの中で何に手を伸ばすかを「信頼のおける人が褒めているかどうか」で決めているから。多くの中から自分で選別するということをあまりしないのは本来あまり良くないと思う。漫画なら雑誌を購読して一通り読んで気に入ったやつの単行本を買うとか、アニメなら毎クール何本か1話を観てその中から継続するやつを選ぶとか。それでは当然リアルタイムで追うことはできない。

 

しかしもっとも大事なのは、やはり現在進行形のコンテンツを追いかけ、そこにお金を落とすことなのだ。それがジャンルを育て、未来に繋がっていくから。クラシックはやはり残っているだけあって素晴らしいものが多いし教養としても必要になることはあるが、何よりもリアルタイムのシーンを追うことを大切に心がけていきたい。

 

そんな僕にとって、2017年最大の事件といえば、当然『月曜日の友達』そして、『ツインピークス シーズン3』である。あの、ツインピークス、本当にすごくて、完全に無敵という概念を体現しているので、今度その話します。

ドラゴンクエストⅪ 過ぎ去りし時を求めて

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クリアしました。大満足。

まあクリアといっても、最初のエンドロールを見ただけの段階で、この後もある程度何かあることは当然推察できるのですが、現段階での感想をメモっておこうかなと。

 

 

さて、サブタイトルとなっている「過ぎ去りし時」とは何なのか。僕は、ドラゴンクエストというシリーズそのもののことではないかと思う。シリーズを11作も重ねた2017年、はっきり言って、"勇者と剣のRPG"が流行る時代ではない。RPG黄金期とくらべて、現在のゲーム環境を見ればそんなことは明らかである。そんな過去の黄金期を「過ぎ去りし時」としてとらえる。僕には開発陣がそのことを第一に認識した上で製作しているように思え、それが本作の出発点だろうと感じる。

このような、巨大なアイコンになってしまったが故の陳腐化は、何もドラゴンクエストだけの問題ではない。長く続いたビッグタイトルが、ある時点で必ず直面する問題である。007シリーズなどが好例ではないかと思う。

もちろん、ある種の様式美として続けていくという選択肢もあるだろう。ドラクエでいうとⅧなどはそういう作品だった。PS2で広いフィールドを走り回れるような、当時としては技術的に最新のレベルで、王道的な物語に回帰した。しかしドラゴンクエストもまた、近作では新しい試みを続けている。Ⅸにおいて、初めて携帯機で完全新作をリリースし大ヒットした。Ⅹはオンラインゲーム。そして今作ⅪはPS43DSの同時リリース、そして3DS版では3Dモードと2Dモードの切り替え可能という衝撃の仕様になった。これは明らかに、今までドラクエをやったことない人、そして、昔ドラクエが好きだった人にこそプレイしてほしいという戦略だろう。では、そこまで仕掛けた今作のメインテーマとはなんだろうか。僕はそれは、「現代において"勇者"を再定義すること」だと考えている。

 

 

ここから先は物語の内容に触れますので、これからプレイする予定の方は読まないことを勧めます。

 

 

「現代において"勇者"を再定義すること」

ではまず、現代とは何か。post truth という言葉があるが、僕はそれが強く意識されているように感じる。

この作品の物語は大きく分けて4段落になっているが、特に第1段落はその色が強い。デルカタール王に会いに行くことになった勇者は、しかしそのデルカタール王によって勇者は悪魔の子であると断定され命からがら逃げ出す。その後の各エピソードも、ほとんど伝聞情報と真実の乖離みたいなものがテーマになっている。人魚のロミアのエピソードが一番の好例であり、あとは呪いの壁画のエピソード、仮面武道会、サラディーの王子の物語や、後半のホムラの里のストーリーなども、語られている物語と真実との齟齬を描いている。そしてこの構図には、もはや2017年において時代遅れとなった"勇者と剣の物語"すなわちドラゴンクエストシリーズそのものが重ね合わせられているように感じられないだろうか。

演出的には、"落ちること"が多用されているのが気になる。物語の要所で主人公は落ちる。カミュと飛び降りたり、船から落ちたり、勇者の星も落ちる。この勇者の執拗な落下は僕には象徴的な演出に思える。ドラゴンクエストⅣ,Ⅴ,Ⅵは「天空三部作」とさえ呼ばれているように、勇者といえば天空という文脈がドラクエにはある。その上で、勇者は悪魔の子であるという流言が出回った世界で、勇者を落とし続ける。あまつさえ、終盤には天空に魔王の城が浮かんでしまうのだ。

そしてもちろん、最も重大な落下は命の大樹が落ちることだ。世界の全てを記憶し、全ての命が大樹の葉となりまた生まれ変わるという設定のこの大樹が落ちた世界。それは、世界の記憶、つまりはるか過去の勇者の時代、そして自分の父母の時代、あるいは語られてきた物語、英雄や勇者の物語がもはや「過ぎ去りし時」となった、勇者不在の世界として描かれているのではないか。再三になるが、当然これには2017年という時代が重ねられている。

 

伝説的な意味での"英雄"像が機能しなくなった現代において、ヒーローが存在しうるとすれば何か。これは、近年のエンターテイメントによく見られる主題ではある。僕はたとえば最近のマーベル映画や、イーストウッドの近作『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』などを思い出す。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)はシリーズ通じて、超越した個人であるヒーローは法に管理されるべきか、という主題を置いている。『ハドソン川の奇跡』は、社会の一員として自らの職務を正確に精密に遂行する存在、という新たな形の英雄像を描いた作品であったと思う。

 

では、今回のドラゴンクエストはその点についてどのようなアプローチをとっているか。

僕は、「自らの手で」ということが鍵なのだと感じている。語られてきた物語がもはや「過ぎ去りし時」となり効力を失ったとのだとしたら、その物語を伝聞情報に留めておかずに「自らの手で」もう一度追体験する。その物語は伝説の時代の勇者の足跡かもしれないし、あるいは両親や師匠の世代の残した道かもしれない。もしくは自分が過去に出来なかったことかもしれないし、その街に伝わる物語、あるいは大樹の記憶かもしれない。思えばこのゲームは、ほとんどすべての段落がこのようなテーマを扱っている。

 そして、自らの手で物語を追体験した先で、登場人物たち全員が「勇者とは何か」を自分なりに再定義することになる。ラスダンのラスボスの手前で全員が口上を述べるところがあるが、それが彼らのたどり着いた英雄のあり方なのだ。

はじめに戻れば、これが2017年において"勇者と剣の物語"の有効性を問い直す構造になっているということで、だからドラゴンクエストの新作として意欲的だと僕は思った。もっと言えば、自らの手で追体験する、というのはゲームというメディアに極めて親和性の高い主題であって、映画とかでやってもこうはならないだろう。それも良かったと思う。

 

まだプレイするので、また。

なぜ体に悪いものはこんなにも美味しいのか

今回は人類の永遠のテーマについてです。

 

突然ですが昨日の私の夕食をご覧いただきましょう。

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蒙古タンメン中本 冷やし味噌ラーメン麺特大 + 定食

この真紅のつけ汁がたとえばトマトの赤であったのなら少しは身体に良さそうな雰囲気も出るものですが、残念ながら唐辛子の赤なのですね。「冷やし味噌ラーメン」というメニュー名の中にどこにも辛そうな要素が入っていないのが凄みを感じさせる。

もちろん、ある食べ物が身体にいい、悪いというのは二極的に断定できることではありませんが、じゃあ、唾液で薄まらずに喉の粘膜に直撃するとむせ返るので麺をすすることもできず、食べたあと唇がヒリヒリと痛むレベルの辛さのつけ麺が身体にいいとは、思えないですね。

僕はある時期から中本にハマり、一時は週一以上のペースで通っていたのです。最近は症状が落ち着いてきて、昨日の訪問も数ヶ月ぶりだったのですが、どうやら再発したらしく、すでに翌昼にはまた行きたくなっています。

 

 

なぜ僕は中本に通わずにいられないのか。まず明らかに辛いものには中毒性があり、それは突き詰めれば、人体にとっての異物を摂取した時の身体の反応を快感と感じるということではないかと思う。酒に酔うというのもそういう仕組みだし、ニコチンなども同じようなことなんじゃないのか?  お腹が空くと中本のことしか考えられなくなるときとか実際ある。ググっていたら、「唐辛子を食べるということは新しいマゾヒズムの形なのかもしれない」と書いてあるサイトもあった。

なぜ痛みを伴うほどの「激辛」を愛してしまうのか? - GIGAZINE

そしてもうひとつは、食事という行為自体をアトラクション的に楽しんでいるということ。これは個人差が大いにあるところかと思うが、僕のようなある種の人種は、味云々以前に食べること自体が好きというのがあって、だから中本は言えば難易度の高いゲームみたいなもので、それをクリアしたところに達成感みたいなものを得ているのではないか。これはラーメン二郎とかにも言えて、だから並ぶという行為もある種の達成すべき課題として捉えているため、待つことに抵抗がない。二郎も僕は必ずカラメして、舌がビリビリくるくらい塩っぱいのが好きなので、刺激物という意味でもそうですね。