酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

楽しい飲み会は、好きですか。

「飲み会?楽しいよね。」

「コンテンツ性、自己表現啓発性、歴史文化性、隙がないと思うよ。」

「でも、ボク負けないよ。」

「さkっ、酒が神化するボクの飲みを、皆さんに見せたいね。」

 

飲み会の思い出というのは様々ありまして、私が経験しただけでもお上品風流なものから下衆なものから気違い沙汰のものまで色々ありました。

 

❶自称社会不適合者実質的コミュ障集団の飲み会

一同コミュ障ですから、なかなか素面では会話もままなりません。そもそもあんまり相手に興味がなかったり、興味のある話題を引き出せない。

そこでお酒です。

皆さま「カンパイ」という言葉はご存知のことと思います。

では、どういう字を書きますか?

 

そういう飲み会です。

自分のカッターい殻を破らんとするその心意気に重きが置かれており、まあお酒はその手段なんですね。

だから飲んだ人がえらい、でも酒量はそれぞれ、自分の限界を超えて行かんとするその姿勢に一抹のきらめきを追い求める…そんなアホな飲み会がありましたとさ。

朝起きたら目の上がパックリ切れてたこともあったなぁ★

 

❷オリンピック女子バレー応援飲み

これはとある合宿での一幕。

飲み会が早くから始まったので、ちょうどテレビでオリンピックの女子バレーをやっていました。

折しも日本とどこかの試合、じゃあ日本を応援しようじゃないかという機運は否が応でも高まります。

そこでどっかのバカが、

「日本がポイントを取ったら皆一杯飲もう」

と言い出した。

すでに結構酔っていたからしょうがないっちゃあしょうがないが、後先考えないとはまさにこのこと。

心意気だけで始めたはいいものの、すぐにバレーはポンポン点が入る競技だということに気づきます。

もう選手が可愛いとかカッコいいとかそういう場合じゃない。

日本には勝って欲しいんだけど、そのために何杯飲むかを考えるとぞっとして、愛国心と自己保身の板挟みになりましたとさ。

あんなこと言わなきゃ良かった★

 

❸文化花見

お花見、というのはかなり高尚な飲み会の一形態ですね。

花は未だ咲かずとも来るべき開花に想いを馳せ、満開の頃にはその色を愛で、散り際に臨んでは儚い栄華に心を痛め、新緑の頃になっては在りし日の花とめぐる季節に思い巡らす。

花の条件は結構なんとでもなるようです。

どっちかというと見る方の気持ちの方が大事なわけで、満開の桜の下、花を見たのは最初の五分、なんてことは残念ながらザラにある話です。

 

未だ文化的花見に相応しい心構えができているかというとちょっと怪しいですが、最近の試みを少々。

花見たるもの、風流の心をもっていないと文化的にはなってまいりません。

風流の心を持っていそうな人にお付き合いいただいて、できれば少数精鋭で花を見るのがよさそうです。

また、文化的と銘打つからには、駅のコンビニで調達したポテチと発泡酒というのでは少し寂しい。

相手や機会に因んだり合ったりする日本酒やら、お酒にも多少の遊び心を発揮したいものです。

となればつまみもそれに合うものということになります。(マァ酒と合って美味しきゃなんでもいいです!

 

意外と忘れがちなのが器ですね。

ちょっと洒落っ気を効かせて雰囲気の出る酒器、皿なんかあるとまた静かに盛り上がるってもんです。

こういうのは準備からして楽しいですから、暇さえあれば花見を盛り上げるにはもってこいの方法だというのが私の最新の自説。

やっぱり当日手ぶらで行くのと準備をしていくのでは、自然意気込みも変わってくるってもんです。

ただ、酔って割ったりしますからあんまり良いものを出してくるのは考えものですね。

こないだも一月前からヤフオク仕入れた石のグラスfromチャイナを一回で割りました(´∀`*)

 

あとは良い場所良い日取り、シートやら机やら掛け布やらおしぼりやら、状況に合わせて準備するとするだけ、形としては文化的になって参ります。

ただ、文化の本質は心、これだけ肝に命じておればあとはなんとでもなるというもの。

形から入って心意気を育てて行きたいものです。

 

 

飲み会の話、ということで進めてきましたが、馬鹿やらなくても文化的でなくとも楽しい飲み会は数多あります。

コールの飛び交う飲み会なんかでも、先生やらのいる歓送迎会でも、一体感のある飲み会というのはそりゃあ楽しい。

しっぽりも良い。

家で飲むのも、何件もはしごしまくるのも吉。

結局なんでも良いんだな(´∀`*)

 

 

「お酒?美味しいよn(ry」

これからもぜひ良い飲み会ライフを★

すんごいおっさんは好きですか

ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンという歌手がいた。

パキスタンあたりのイスラム神秘主義の宗教音楽であるカッワーリーの演奏者で、とってもとってもおっきいおっさんだ。

カッワーリーというのはなんぞやというと、イスラム教はスーフィズムの一派で用いられる宗教音楽で、白い服を着て回り続けたりする代わりに、アゲアゲな"歌"でみんなで神との合一状態、トランス状態になろうっていうのが目的のやつ。

つまり、アゲなのです。

 

ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンはもう亡くなってしまいましたがカッワーリーの演奏者として非常に有名な人で、(私はカッワーリー界にあんまり詳しくないけど) 間違いなく歴史的演奏者なのはもう一聴すれば分かる。

百文は一聞にしかず、まずは聞いてみてほしい。

Nusrat Fateh Ali Khan - Allah Hoo Allah Hoo Full Qawwali By A.Raziq Piracha - YouTube

Nusrat Fateh Ali Khan - Allah Hoo - YouTube

 

いかがでしょうか。

バックのタブラという打楽器やコーラスやハルモニウムなんかも全部ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンの歌唱を聞かせるために全力を尽くしているし、後ろのコーラスの人たちもとっても良い声してて素敵だけど、とにかくおっきいおっさんの歌がすごすぎる!

顔も威厳と厳しさを湛えつつ茶目っ気もあり生き生きしていて、なんかお肌やら唇もトゥルトゥルだし、おっきいおっさんなのにめちゃめちゃ格好良い。

また手の動きが雄弁多彩でいいんですよね。

読者諸兄も(そんなものがいるとすればだけど)まんまとアゲられてしまったのではないでしょうか。

 

これは大好きでよく聞いているんだけど、一つ思うのはこの音楽はやはり宗教音楽的な特徴を残しているなということ。

何かと言えば、歌は歌でも歌詞を尊重する形で発展している気がします。

めちゃめちゃ早口なパフォーマンスとか、同じ詞章の繰り返しとか、とにかく歌詞を残す方向でやっていると思う。

宗教音楽じゃない芸能って、だんだん歌詞の内容に縛られない旋律やら歌い回しやらが発展して歌詞の内容が直接的に聞こえなくなることも多いのと対照的ですね。

日本でいえば例えばお水取りの声明とか、仏教声明にも同じようなところがある気がする。あれも最高!!

 

まあそんなことはどうでもよくて、最初の方のリズム抜きでゆっくり歌う音階の提示部、これでたっぷり歌声を沁みさせられた後に、疾走感のあるリズムの始まる瞬間のキタコレ!感、そこに乗って繰り広げられる超絶歌唱も次第にヒートアップして…ああっ、堪んないです!!

聞いたことないけど、彼はカッワーリーだけじゃなくてポップな音楽活動もしているらしい。

微分音も使わないし、乗り入れはしやすそう!

こんだけ歌がすごいからそっちでも大人気らしいです。

聞いたことないけど!笑

ホントに生で聴きたかった。

 

余談ですが、ゴールドライセンス持ちのスーパーペーパードライバーの私は数十ヶ月ぶりの運転の緊張を気を紛らわそうとして彼の曲をかけてまんまとアゲられ、少し気が大きくなって少し怖い思いをしましたとさ。

読者諸兄もご注意くださいませ☆

 

生カッワーリー聴きてー\\٩(๑`^´๑)۶////

WALKING IN THE RHYTHM 映画と音楽

20xx年4月上旬、近年よりも遅咲きの桜の花が未だ枝をしならせる頃、『マインド・ゲーム』以来となる湯浅政明の劇場長編作品『夜は短し歩けよ乙女』が公開された。この記事は、FISHMANSの名曲『WALKING IN THE RYTHM 』を題に、『夜は短し…』から、かの黒沢清の初期の大傑作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』へと横断しようという無謀なる試みである。

 

「楽しいことだけ 知りたいね」と佐藤伸治は歌う。佐藤伸治とは他ならぬFISHMANSのボーカルギター担当のフロントマンである。

一方で『夜は短し歩けよ乙女』に主人公として登場し、その愛らしさと無邪気さによって我等読者を夢中にさせる黒髪の乙女は、“オモチロイこと”に引き寄せ吸い寄せられるようにして、数多の大冒険活劇を演じるのであった。

楽しいことだけ知りたい! オモチロイことだけを追い続けたい!そう、それは人類の行きつくべき理想ではないか。隣の国も隣の街も隣の人も、つまり政治も社会も恋も友情も、それがオモチロイ範囲の内においてのみ存分に享受する。彼女の言葉を借りれば

「なにしろ、それまでの私はほかのオモチロイことに無我夢中、男女の駆け引きにまつわる鍛錬を怠ってきたからです。」

 

※『夜は短し歩けよ乙女』は「君」と「僕」の関係性を世界全体へと昇華させているという意味で、ある種典型的なセカイ系作品である。すなわちここで言う「男女の駆け引き」とは、世界全体におけるあらゆる関係性の見立てとするべきであろう。

 

湯浅氏の映画化は見事ではなかったか。時間の流れを意識した改変、映画が他の何より時間を司る芸術であることに基づいた演出が印象に残る。しかしそれにも増して氏の最大の功績は、黒髪の乙女の歩調をスクリーンに映し出したことに他ならない。

 WALKING IN THE RYHTHM、リズムにのって歩くこと。音楽を前へと進めるのがリズムであるのと全く同じ理屈で、音楽と同じく時間に制約され、その対価として時間を操る魔法を使うことを許された映画を突き動かすのは、黒髪の乙女のずんずんとした歩調に他ならないのだ。

「この胸のリズムを信じて / 歌うように歌うように歩きたい 」

とは彼女のことを歌っているに違いない。黒髪の乙女が夜の京都の街をすいすいと、あるいはずんずんと歩き、ときには軽やかに駆けてゆくとき、他のキャラクターも小道具や背景までもが連動して、想像力豊かなアニメーション的喜びに満ちた動きを展開する。

その動きと動きがやがて線になって、人物を繋いでいくというのは原作の主題である。しかし湯浅氏はそこへ更に相対的な時間という極めて映画的なモチーフを追加している。黒髪の乙女と老人たちとで進み方の違う時計。老人たちの時間は矢の如く過ぎ去っていく。しかし我らが黒髪の乙女はその歩調によって老人たちの時間の流れをも気ままに規定し、出会った老若男女の全員を引き連れて李白氏との飲み比べへと行き着くのだ。

 

さて、それでは話題を『ドレミファ娘の血は騒ぐ』へと移してみよう。『神田川淫乱戦争』に次ぐ黒沢清の第2作。その主人公であり、当時20歳そこそこでデビューしたての洞口依子演じる秋子の佇まいの素晴らしいこと!ひとことで言えば、彼女もまた、映画の秘密の魔法を許された黒髪の乙女なのである。はっきり言って私には、『夜は短し』と『ドレミファ娘』を並べた言及が全く見当たらないのが不思議でならない。謎のミュージカルシーンまで類似しているというのに!

舞台は新歓期の大学、構内に入っていく秋子を捉えたオープニングのロングショットだけでも彼女が特別な存在であることがわかる。凡百のゴミ以下大学生どもが新入生と思しき人物に手当たり次第声をかけるなか、彼女はそれら群衆を意にも留めずに美しい姿勢で迷うことなくまっすぐ左から右へ歩いていく。彼女が目指すのは吉岡という高校時代の憧れの先輩。しかし大学の奥へ入っていくごとに、堕落した大学生(=彼女にとってのオトナの世界)を目の当たりにし… という、『夜は短し』の逆というか裏のようなプロット。

そして何より、この作品は極めて音楽的な映画である。「人を感動させるのは音楽だけである。なぜなら絶対的な音が関係性と切り離されて存在するからだ。」というようなセリフが出てくるが、この映画まさにそういう映画なのだ。初期黒沢清のキマりすぎというくらいキマった尋常じゃない強度のショットは、強すぎる故に映画から独立してしまうかのようにさえ感じられる。その独立した絶対的ショットの連続はドラマから乖離したそれ自体によって、さながら音符が連なった音楽のように、「黒沢清の映画」というリズムと調性を我々観客にまぎれもなく感じさせる。そして、その「黒沢清の音楽」を紡ぎ出す原動力は、秋子が大学の奥へ奥へと踏み入っていく美しい大股の歩調に他ならならず、まさに彼女の足取りによって映画そのものが動いていくのである。