誇り高き江戸の欲望ライダー達の話、ついでにカオナシ。
皆さま「お大尽」という言葉はご存知のことと思います。
最近「元禄時代」という日本史の本を読んでいまして、そこに吉原の風俗が紹介されていました。
いろいろ面白い話が書いてあるけど、何が良いって、お大尽にはお大尽の矜持というものがあるということです。
奉公人なんかだと、出世したほんの一握りが30代40代になってやっと給料が出る、妻帯ができるという具合。自分の自由になるお金をまとまって持てるということ自体が一つのステータスだったような時代で、吉原に遊びに行くというのは相当に大変なことだったそうです。
服なんかも半年も前から準備し始めて、遊び上手に手取り足取り教わりつつ、かしこに気を遣って準備取り揃え、座敷遊びなんかも他でお稽古していくそうで。
かつ太夫さんだとか、高位の芸妓には3回くらい通わないと馴染みにはなれないという。
「振りと意気地の吉原」とか言ったそうですが、中途半端な男には靡かない、権力や金銭にも目をくれない、それが吉原女の矜持だったそうで。
そんな気位を切り崩そうというんだから、吉原で遊ぶというのは度量の大きく気の長い話です。
そんな色男達を当時は「男伊達」とか言ったそうですが、容姿・装いに立ち居振る舞いはもちろん、商いもこなしお金も時間も自由になり、心に洒落があって、要は何につけ「遊び」がある、
欲望は大きく、とんでもない金額をつぎ込んで、かつそれらに捉われないさっぱりした心で楽しめるっていう、聞くだにハードルの高い人格が良しとされていたそうです。
逆に、こういうのはお大尽としては下の部類。
偽金を使って豪遊!酒池肉林の豪遊!をしておいて、千尋が靡かないとキレて大暴れのカオナシ先輩。
何と言っても先輩は欲しがり屋でベッタベタですから。
すぐに見返りが欲しくてないと怒っちゃうし。
その辺がいわゆる器の小ささで、先輩の醜さのポイントですね。
まあ残念ながらお大臣気質でない身としては、彼の気持ちは苦々しくもよく分かるけど。
顔がないというのは自分が何者か明らかでないっていうことで、強い自己認識の規範に縛られないから暴走してこういうことになっちゃうよねってことでしょうか。
そういう意味では千と千尋の物語はカオナシが自分を見つける話でもあります。
作中の役割としては欲望の権化たるカオナシが本質的には欲望に飲まれている清貧な精神で、欲望と一番遠い銭婆ところで落ち着くっていう。
ついでに、千尋が電車にくっついてきたカオナシを乗っけちゃう点なんかは、最近キーワードっぽい「ジブリ主人公の神聖性」がちょっと入っているような気がする。
話を戻せば、吉原なんて欲望の街って言っていいと思うけど、悪所通いをする欲望の強い人間の中でも一番上等だとされているのはそれだけ強い欲望の手綱を握れる人っていう、器の大きさってものに感じるところがあったという話。
まあ自分の場合はお金もなし、ぼろは纏えど心は錦ってなことになっちゃいますが、身分相応にいい遊びをしていきたいものです。
季節は春、ちらほら咲きかけてきた頃だし、まずは花見からってとこでしょうか。
花見に関しては色々と模索してスタイルを確立して行きたいところなので、花が咲いたらそんなことも書いて行きたい。
アニメーションにおける水 『未来少年コナン』からの数珠繋ぎ
『未来少年コナン』をみた。いろいろあるけど、コナンについて僕の思うことはは性癖とは別の話なので別のブログに書いた。もしものすごく暇があれば読んでみてほしい。
http://nothinner.blog.fc2.com/blog-entry-125.html?sp
(蓮實重彦風のタイトルがだんだん恥ずかしくなってきた)
参考 : http://www.athenee.net/culturalcenter/special/special/hasumi_f.html
で、この場所でするべき性癖の話といえば、アニメーションに登場する水のことである。僕は、特に根拠は無いものの、アニメーションは水を描かなければならないくらいのことを勝手に思っている。んで、本当のことを言えばここで宮崎アニメにおける水のモチーフを紐解いてみたいと思ったのだけれど、それは気合入れて全作観なおすくらいが必要だと気付いたので、面倒だからやめる。かわりに、未来少年コナンから数珠繋ぎ的に様々なアニメにおける水の描かれかたを横断してみたい。
さて、コナンに登場する水といえば、第一にロケット小屋の地下に湧き出た泉であり、その他もちろん、豊かで美しくまた時には津波としてその怒りを露わにする海のことである。そしてこの水のモチーフは、宮崎駿がキャリアを通じて描き続けたものでもあると思う。
海の描写はポニョで頂点に達する。この海は、豊かで美しくかつ、人類の罪を決して許さない厳しさを内包したものであった。そして一方の、透明で美しく自然の祝福かのような宮崎駿の水としては『風立ちぬ』の2人の再会の泉を思い出すのだ。
このような、水の二面性を描いたアニメとしては『聲の形』をあげてみたい。それについては少し文章を書いたことがあるので、前出のブログの記事を再び。ド暇だったら読んでね。
http://nothinner.blog.fc2.com/blog-entry-121.html?sp
聲の形における水とは、その冷たさにおいて、将也をはじめとするキャラクターの抱えた罪に対して与えられる罰であり、またその暖かさにによって、作品に登場する少年少女の愚かさまでも含めて1人の人間を丸ごと包み込み肯定するものであった。
思えば山田尚子作品では『聲の形』にも『たまこラブストーリー』(たまこマーケット)にも『響け!ユーフォニアム』にも川が印象的に登場している。そのうち2作品では舞台が京都である(聲の形は岐阜)という点まで含めて、京都出身で京都造形芸術大→京都アニメーションという生粋の京都人である山田尚子の作家性とさえ言えるかと思う。特に『たまこラブストーリー』の鴨川はなかなかに忘れがたい名場面だった。あと、山田尚子は川そのものと同じくらい川にかかる橋を重視しているが、その話はまた。
近年のアニメで川が印象に残る作品といえば、『昭和元禄落語心中』をおいて他にない。ただし、落語心中の川は、冷たさ⇔暖かさの二面性の水や、川と川辺と橋という空間を作り出すものというよりも、緩やかに流れていき移ろいゆくものであった。つまり落語という芸能が師匠から弟子、そしてそのまた弟子へと継承されながら少しずつ変化していくことのメタファーとなっている。極端にいえば、作中で何度世代が変わっても、同じ場所に川が流れているということにこの作品の本質があるのではないか。
そのような記憶の蓄積としての水を扱った近年の作品としては、まず『マイマイ新子と千年の魔法』が思い出させる。あのアニメで登場する川は、千年の記憶を蓄積し同じ場所に流れ続けるものであった。しかしこの作品では水のモチーフをこれだけ一貫して扱うにも関わらず、雨が降らないのだ。僕にはこのことが重大な問題に思えてならない。少年少女の成長を描きながら、あまりにもタッチが楽観的すぎるという欠点を端的に象徴しているようではないか。
雨が印象に残るアニメとしては『レッドタートル ある島の物語』『おおかみこどもの雨と雪』という2本の大傑作が浮かぶ。この2本とも雨の音が素晴らしく、劇場で音に包まれる体験はとても豊かであった。
『おおかみこども』の水について言えば、狼男や雨くんが落ちた川や、台風で吹きつける暴風雨などのように厳然とした態度を保ちながら、しかし雨くんが川に落ちる前のシーンは一面の銀世界で駆け回る姉弟の歓びが満ち溢れている様が描かれていたり、台風の直撃に伴う暴風雨こそが草平と雪にとっての魔法のような時間をもたらしたように(僕の人生ベストカーテン!)、人間たちの手の遥か及ばないところからの超越的な祝福を気まぐれに施しもするのだ。
そのほか、学校に来なくなった雪ちゃんのところへ連絡帳を持ってくる草平に花が出すソーダが妙になまなましく印象に残っている。思えばこの妙に美味そうな冷たい飲み物は『ぼくらのウォーゲーム』から一貫して細田が描いてる水ではないか。この水はつまり、生物が生きて行くのに絶対不可欠なもの、あるいは命そのもののような水である。
たとえばアニメ『3月のライオン』では、対局シーンで何本も準備されているペットボトル飲料がそのような水として出てくる。汗をダラダラと垂らしながら文字通り命を削って対局しているプロたちは、流れ出た分の水を飲んで盤上で生き残る道を懸命に探している。やがてその水が尽きるときが決着のときとなるのは必然でしかない。
一方で『3月のライオン』には川も出てくるだろう。あの川は、主人公の“零”という名前のように、徹底して透明な水だった。どこまでも沈んでいけば静かで安らかな世界で緩やかに死ぬことができる。しかし生きる者=闘う者はそれでもがむしゃらに泳ぎ続けることをやめられない。彼の心臓の鼓動がそうさせるのだ。この水の二面性も、物語的テーマを実によく表していた。
悲しき滑稽ー純朴と愚鈍ー:モウロ将軍
ぽんぬふ氏に大分遅れを取ってしまいました。
初期ジブリ原理主義者の考察シリーズ、メインっぽいところから行きたいと思ったけどもう良いや。
ということで子供の頃から大好き、ラピュタのモウロ将軍。
皆さまモウロ将軍をご存知だろうか。
知らない方も多いに違いない。それも無理からぬこと。
だって作中に名前出てこないんだもの。
まずはスタートラインに立つために、皆で閣下のご尊顔を拝見しましょう。
これで皆さまにもお分りいただけたでしょうか。
ムスカ大佐とやりあおうとして一方的にバカにされたり、飛行戦艦ゴリアテの指揮を取ったり、画面ではあんまり出てこないし特に良いところもない、おまけに最後は哀れにもラピュタから真っ逆さま、あの「将軍」「閣下」であります。
(ちなみに、モウロ将軍がトップを張っていると思しきあの要塞は「ティディスの要塞」と言います。)
このモウロ将軍、ラピュタにあって、脇役なのにどうも頭に残る。
名脇役でもないのに、なんだか変な存在感があってクセになる。
非常に余談ですが私は小さい頃はひたすらモウロ将軍の声マネをして遊んでいました。
別に声真似自体が好きというわけでもなく、誰かに見せようというわけでもなく、ただモウロ将軍だけは真似せずにはいられなかったんだ。
つまり何が言いたいかというと、彼のキャラクターには不思議と魅せられるものがある、ということ。
それは何か。
それっぽくまとめてみれば、『純朴』と『愚鈍』じゃないかと思う。
それが共感を呼ぶ。
初期ジブリ原理主義者的考察を広げる前にまず、基本的なモウロ将軍の立ち位置をおさらいしましょう。
モウロ将軍は巨大なティディスの要塞でもナンバーワン、ラピュタ探索の指揮官を務めるトップエリート軍人、物の本によれば階級は中将らしい。
典型的な軍人気質で、短気で強権的、 武力によって多くのことを解決しようとする体育会系タイプ。ムスカ大佐とは真逆の性格と言えるでしょう。
ラピュタ探索については指揮官として全権を掌握しているものの、政府の密命を受けている特務のムスカ大佐が目の上のたんこぶで気に入らない。
あんまりラピュタに関する細かい事情は知らなくて、ムスカが出来事の中心に近いところにいるのに対し、外縁にいて対処も後手後手になってしまっています。
指揮している組織が大きいせいもあり、小回りのきくムスカ大佐にいいように使われているだけ。
ラピュタ到着後は本性を現したムスカと対決するも、何の爪痕も残せず無残にも上空より海に落とされてしまいます。
簡単におさらいしたところで、糸ぐちをば。
モウロ将軍は無能なのだろうか。
結論から言えば、私はそうでもないと思う。
ラピュタ探索という夢物語みたいな任務を背負って、まあ腐らず熱心に頑張っている風だし(暗号が解読されている等、ご愛敬的落ち度はあるが)、軍人としてはそれなりに有能なんだろうなと思います。
彼に無能さがあるとすれば、ちょっと軍だったり任務だったりムスカだったり人生だったりに疑いがなさすぎるというか、まあある意味で(軍人的に)純朴だなと思う点です。
この人絶対お坊ちゃんだと思うんですよね、ちょっと能天気だし自分の生きてきた世界の全てを信頼している。その分楽しそうだけど。
ただ、ラピュタの財宝を前に変な声が出ちゃうところとか、お坊ちゃんと言ってもそこまで超裕福とか超血統というわけでもなく、精神的お坊ちゃんというか、それなりに努力して上まで来たんだろうななどと想像を逞しくしている次第です。
少なくともモウロ将軍は彼の世界認識の範囲内でよくやっていると思う。
ムスカとの主導権争いにおいて、ことラピュタに関しては最初から完全なる負け戦だったというだけの話。
彼の落ち度をあえて言えば、ムスカをさえ軍人として最低限信用している、つまり、実はムスカが黒い野望を持ちかつ爪を隠している超キレ者の鷹で、ラピュタ王族の正当後継者でラピュタに関して非常に特権的な知識を得て軍を裏切って世界を征服する現実的なプランを持っている、なんてことは考えもしないってことだと思います。
でもそんなの、当たり前じゃないかな。
どう考えても杞憂の範疇のことです。ドンマイ。
そして、その純朴さと愚鈍さはもちろんセットなわけだけど、これが何とも人間臭いというか、我々の生活感覚に極めて近いところのものだと思う。
普段象徴とか全然考えないけどあえてそんなこと言ってみるとすると、最後にモウロ将軍は床が抜けてラピュタから落とされるシーンがあります。
モウロ将軍はその前の瞬間までずっと床を信じて立っていたんだけど、その前提をぶち壊すように彼を中心に床が抜けて彼は落下します。
晴天の霹靂(の逆)というか、ここで彼は初めて、ムスカと自分が全く違う前提に立って戦っていたんだと実感するわけです。
そりゃ敵うわけないし、馬鹿にもされますよ。
でも、モウロ将軍は自分の現実の中で存分に腕を振るい、一生懸命生きていたと思うし、彼なりの前提を疑わないことは決して責められたことではない。
むしろ、そうして今の自分の世界認識を信じて生きる以外にどんな生き方があるのだろう。
今夜地殻変動が起きて7つの大陸が海に沈み、朝起きたらお家がのこされ島・・・なんてことはたいていの人は考えて生きていないような気がするし(居られたらごめんなさい)、私に至っては駅まで行く途中で暴走車両が突っ込んできて・・・なんてちょっと有りそうなことさえ考えてみない。
ただ、突然床が抜けただけのこと。
そんな不運な役柄ゆえ、滑稽に描かれているのが悲しい。
でもやっぱり面白い(笑)
モウロ将軍の落下は、一面では前提を疑えという教訓なんだけど、私はその上で床は抜けない前提を選択して生きてゆくのは美しいんじゃないかと思う。
モウロ将軍の純朴さは一つの美徳というか、人間的魅力なんじゃないだろうか。
私は個人的に、モウロ将軍には綺麗な奥さんと可愛い娘がいて、家に帰ると温かい家庭があると確信しているし、ムスカと違って表裏のない閣下は上司としても結構信頼できるんじゃなかろうかと思う。
一生懸命でそこそこ仕事もできて愛嬌もある、人としては陰険でひねくれた陰謀家のムスカなんかよりよっぽど上である。
私にとってそういう愚鈍な美徳は信条でもあるし、モウロ将軍はどうしても憎めない。やっぱり大好き。
最後に閣下の一番好きな台詞を。
「ドぉーラごときに出し抜かれずに済んだのダぁ!」
ポイントは何と言っても最後の「ぁ」ですね。
純朴さ、ばんざい!
そこから頑張ればええ。
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モウロ将軍だけじゃなくて、私はどっちかというとジブリの脇役が好きな気がします。
もちろんメインキャラの面々も大好きなんだけど、その他の脇役のキャラクターがお話の進行上必要な役割をはるかに超えて、魅力的な人格として描かれていて、それが少ない登場回数・セリフの中ですごくリアルに浮き出ている、そんなところに最大の魅力を感じたりします。
(主人公でなくて良い分、彼らはより自由に人間らしさを獲得することができているとも言えそう。ぽんぬふ氏の別ブログのコナンの記事にもちらっとあったけど、主人公はどうしてもある種のイデアを背負う面がある。ぜひぽんぬふ氏の記事も読んでください。私と違ってとっても理性的・知性的です。)
⇨未来少年コナン 宮崎駿と「飛ぶこと」 - いい言葉ちょうだい
そもそも、私が初期ジブリ原理主義者を標榜しているのは『千と千尋の神隠し』以降になると、サブキャラの魅力なり世界観の広がりなりが薄らいでくると感じてしまったということが大きい。
なんというか、あふれる情熱とか志の高さ、執念みたいなものが段々と希薄になってしまったなーと感じる。
それはなくても作品は成り立つし、良いものもできるかもしれないけど。
そういう意味では脇役の魅力を変態的に伝えて行くのは私の使命なのかもしれない。
異論争論大歓迎、でも私は自分の床を信じます。