夢から愛、そして自分自身へ: パズー
初期ジブリ原理主義者の考察シリーズ、何はともあれまずは不動の人生ベスト『天空の城ラピュタ』です。
このシリーズではとりあえず一人一人のキャラクターを取り上げるよ。
まずは、その生き様が私の人生のバイブルといっても過言ではない、パズー師。
パズーは田舎の小さな鉱山町の丁稚として働きながら、お父さんがラピュタを発見しつつ周囲に認められなかった不遇な冒険家だった縁で、天空の城ラピュタを追い求めるという夢を見ている訳です。
生活も貧しければ鉱山町も鉱脈が枯れていて倦怠感垂れ込める、ほとんど夢も希望もないところで、あるかないかもわからない天空の城を捜すというものすごく漠然とした夢を、父親の主張だけを頼りにみて過ごしているパズー。
そして、自分の少ない給金のかなりの部分を飛行機作りに費やして一応夢を追ってはいる感じだけど、それを語るパズーの声にはどこか力がない。
多分パズー自身、心のどこかで、このままの環境では自分の夢は実現の段まで届かないことに感づいている。
登場時の彼は、途方も無い夢を見ている善良な一丁稚に過ぎない。
その上で毎日を腐らず送っている心の純粋さ、その純粋さを保てるところに、まず彼のすごさがあるけれどね!
そこにシータが降りてくる。
『きっと、素敵なことが始まったんだ』
自分の歯がゆさを吹っ飛ばしてくれるような出来事に胸が踊る!
軍やらドーラ一家やらポム爺さんやら飛行石の結晶やら色々あって、丘の上で、今まで彼の中でも夢物語だった、ある意味すがるように信じていたラピュタ(とそれを主張した父親)が一気に真実味を帯びてきた、そのことに胸を高鳴らせて狂喜しつつ、夢を追うことを現実的な問題として決意するんですよね。
ラピュタはあるんだ!やればできるんだ!やるぞ!ってね。
この時点で、パズーは単に夢を見る少年です。
『ラピュタを追うこと』、それが彼の史上命題です。
しかし、展開はシータの『秘密の名前』の告白から軍の急襲で一変、パズーは自分の追おうとしている夢の、今まで当然彼の知るところでなかった暗い面、ことの重さを突きつけられる。
そして、一回はティディスの要塞でムスカと彼の率いる軍に心を叩きのめされる。
この時点では自分が守っているつもりだったシータに裏切られたっていう気持ちもあり、ラピュタの重さとそこに挑もうとした自分の、あまりに無邪気で能天気、無知で浅はかな無力さに打ちのめされる。
皆さん、パズーが家路でムスカからもらった金貨を捨てられない、あのシーン覚えてますか?
あれは金貨を拾う行為と逆に自分の夢と愛を捨てちまったっていうことで、いわゆる『大人になる』ってやつで、私なんか見ると本当に胸締め付けられるシーンなんですよね…。
明日からの生活のため、あるいはどう足掻いても実現の可能性の薄い今まで進めてきたラピュタ探索計画のため、目の前に転がり込んできた夢を売る。
『やっぱり僕には無理だったんだ、自分の今持っている慎ましい人生に満足しよう。』
そこにドーラ一家登場。
ドーラがさらっといいこと言うんだ。
心が折れかけて低きに流れようとしているパズーに、より現実的な判断を突きつける。
シータの献身の話をする。
ガーンと頭を殴られたような感じだと思う。自分の思い違い、考えの子供っぽさ。
でもパズーはここで折れなかったね。強いなあ。
多分、タイトルにもしたパズーの夢から愛へのターニングポイントはここです。
ラピュタを追う夢より、シータに重心が移る。
まああんまり分ける意味もない気もするけど。
ここから、お互いの利害関係が一致するからパズーはドーラ一家に同行する訳ですよね。
そのシーン、
『二度とここには戻れなくなるよ』
これが重いんだ。
そう楽ではなくったって、今まで積み上げてきた人生と、愛と夢を天秤に掛けられますか?
もちろんそれほどの強い想いということなんだけど、私達が普通に生活している感覚からすれば、これは完全に異常で、頭のネジが吹っ飛んでて、バカな判断だと思う。
が、もちろんそれがいいんだ。
そこからしばらくの展開はまあ、映画を見てくれ。
最高だ。
賞金を出してもいい。
で、要塞からシータを救って、二人はあろうことかラピュタに行くことにする。
ロボット兵のこととかあって、まあ自分の人生から逃げないとなると、確かにそうなると思うけど、なんとも辛く厳しく重い決断だと言わざるをえない・・・。
『ラピュタの本当の姿を見極めたい』、それはシータが何者なのかを見極める旅でもあるし、パズーはそんな彼女の力になりたいと思っている。
シータはパズーがラピュタに行きたいと知っているし。
静かな決断をドーラは受け入れる。
で、飛行船タイガーモス号の中での愉快な生活があって、パズーとシータの見張り台のシーン。
もう、ちょっとここの話は色々ありすぎて、重すぎるのでちらっと行こう。
『全部片づいたら・・・、きっとゴンドアへ送っていってあげる。・・・見たいんだ。シータの生まれた、古い家や、谷や、ヤク達を・・・。』
これ。これこれ。これこれこれ。
”見たい”んだって。自分のことなんてなんにも考えてない。
愛。
それで、どうにも欠かせないのはパズーとお父さんの話。
ゴリアテに龍の巣のキワまで追い詰められて、パズーが言う、あれです。
『父さんの言った通りだ、向こうは逆に風が吹いている』
『行こう、おばさん!父さんの行った道だ!父さんは帰ってきたよ!』
頭の中にディデ ディデ ディデ ディデ って流れてきますね。
堪らない。もう書いてて死にそう。
多分パズーはお父さんが大好きで誇りに思いつつ、お父さんのせいで辛酸をなめています。
それゆえにどこか父さんを信じきれなかった。
そこに彼のアイデンティティの揺らぎがあり、それがラピュタを追う動機にもなっていた。
でも、彼が人生かけて攻めに攻めている此処一番の大勝負の、そのまた一番大事なところで、父さんが助けてくれる訳です。
そのことがパズーにとってどれほどのことか考えたら、、、。
『父さんは帰ってきたよ。』
父さんが帰ってきたから僕らも生きて帰れる、っていう意味はもちろんなんだけど、パズーはそこに父さんの姿そのものを見ている、父さんを今までにないくらい物凄く近くに感じている、そんな思いを私は小学生くらいから強く感じている。
その辺のことは龍の巣の中でパズーの見た幻影でサイレントに明示される訳だけど、いやはやなんとも、何度見てもここは絶対泣いちゃう。
ラピュタ着いてからは庭園のこととか、黒い半球のこととか、まあ色々あってラピュタの色々な面を知っていく訳ですね。
莫大な財宝を溜め込んでいて、心安らかな庭園と、園庭のロボット兵と、ヒタキの巣と、恐ろしい科学力と大樹に象徴される自然。
kwskは映画を見てくれ。(もちろん最高だ。首でもなんでもかけてやる。)
結局、パズーは色々知った上でラピュタを滅ぼす決断をする。
もちろん自分もシータも助かるとは思っていない。
あれだけ自分の人生を掛けて追い求めてきたラピュタは、あっちゃいけないものなんだという結論に至る。
ひどい。あまりにひどい。
辛すぎるよね、ってやつですよ。
でもそこを逃げない。
これはあまりに凄絶で、あまりに強くて、あまりに悲しい決断だと思う。
こればっかりは、それじゃいかんのだけれど、私にはちょっとできないかも知れないと思っちゃうなあ。
結果的には助かって、ゴンドアに行く感じ。
まあでもそれはそうなってよかったというだけの話。
彼は懐の広くて深い、思慮深くてめちゃめちゃ優しくて強い素敵な大人になることだろう。
以上大体のおさらい。
パズーの人生は私の人生のロールモデルなので、ちょっと気持ちが交錯してうまく纏めようがないんだけど、ちょっとだけ言葉にしてみたい。
パズーは夢を追う少年から、愛の人に変身していく。
でもそれらは、ある意味でまだ客体の領域に属しているものだ。
その客体であるところのラピュタが、お父さんやシータやドーラとの色々を通して、自分の主体の領域にまで入ってきて、つまり夢ではなく自分の存在そのものになって行く。
自分の存在がシータと共にラピュタを追い、見極めて行くそういう存在なんだ、アイデンティティの上でそれは不可欠なんだというような、ラピュタが自分自身の内面に降りて行くという変化。
そんな変化があるんじゃないだろうか。
だからこそ最後の決断もあるんだと思う。
最後に、ちょっとだけ私たちに引きつけて終わりにしたい。
パズーはそもそも有能で純粋で筋が通ってて強い超素敵な少年なんだけど、とにかく彼には私たちで言うところの『まあこのくらいだろ』っていうのがない。
目的を一つだけ持って、後のことはかなぐり捨てて飛び込んでいく。
価値観が、思いが、自己認識が、それだけ研ぎ澄まされている。
前提には特殊な状況がもちろんあるけれど、私たちは彼の取捨選択の早さ、身軽さとそれを支える、自他の境界がバキッと引かれた世界認識から多くのことを学べると思う。
身一つ、夢一つ、愛一つ。
それが全財産。
気高く美しい人生。
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ここから先は完全に個人的な話。
パズーの生き方に物凄く惹かれる。
もうどうしようもなく好きだ。
最近、何かを好きな気持ちに蓋をしがちな自分に気がついた。
でもそれは本当にどうしようもないことなんだ。
好きなんだからしょうがないんだ。
最近はそんなことを声を大にして言ってもいいという気がしている。
好きじゃなかった場合の自分を諦めてもいいという気がしている。
夢と愛に生きよう。
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さよなら…魔法つかい!奇跡の魔法よ、もう一度!
周知の通り『魔法つかいプリキュア 第49話』ですよね。実質最終回で、泣きに泣いたわけだけど。
ゴリゴリやってラスボス倒した後、空を見上げるみらいと舞い落ちる花びらのようなものが写り、その次のカットはリコが使っていた部屋なんだけど
画像だとわかりにくいけど、射し込む光に花びらの影が写っていて、その影が画面の下から上に動いている。
なんというかこのわずか2,3秒のカットですけど、リコの不在は当然として、光と影のようなみらいとリコの正反対だけど対になって強く結びついた関係とか、落ちる花びらのナシマホウ界のみらいに対してリコは影が上昇している魔法のような感じとか、桜の花はもちろん1話の2人の出会いの象徴であり影になった花びらで別れを感じさせたりとか、同時に遠くで見守っていてくれているだろうはーちゃんの存在も仄めかされたりとか、そういうものがリコの心の中に光や花として残り続けるだろうという予感とか、とにかく48話分の厚みが去来する。ラスボス戦の押しに押した演出の後で、こういうスッと引いた絶妙のカットを入れられるとなんというか、殺す気かと思う。もちろんこれはまどか☆マギカではなくプリキュアなのでもう一度奇跡が起こるわけだけど、それでもその時の彼女たちの覚悟は本物なので。とにかくこのカットはミラクルだと思った。絵コンテと演出は三塚雅人。
梅
私、梅が好きです。
春になれば梅の香りはかげるだろうって?
ねえ、馬鹿言っちゃいけないよ。
春になったと思ったら、梅はもういないんだ。
もう誰も立春で春だなんて思やしない。
あの、えもいわれぬ香り、
ちょっと甘くて、少し酸っぱくて、控えめに叫んでいるようで、周囲を包み込むようでいて、近づくと儚く散ってしまう、あの花粉の香り。
そういうのは悔しいんだけど、ちらっと鼻腔をくすぐるだけで生きている幸せを感じてしまう。
馬鹿やろう!
でも、梅の一番いいところは、私に言わせれば香りじゃない。
待ち遠しいあの可愛い花でもない。
何って、幹です。
ゴツゴツと黒くて、曲がりくねって枝分かれしている、あの幹です。
桜なんて面白くもない。ズドーン。それだけ。
梅はそれぞれの形が出る。
黒くてゴツゴツして、不恰好で、幹もほそい。
でも、眼を惹きつけてやまない枝ぶり、香り。地味なりに開く華がある。
それは桜なんかじゃそもそもあり得ない、儚くて不安定で、その上に立った絶妙なバランスのおもしろさです。
枝ぶりが個体の特性に寄って、儚いからこその混乱、その中の調和。
それぞれが決定的な欠点と素晴らしい長所を両方持っていて、その共存が大きく見てプラスの方向にある、そういうものは側から見ても素晴らしい。
最初から綺麗だとわかっている人工物はそれ以上の機能をなかなか果たし得ない。
梅は一番美しくはないかも知れないが、一番可愛いと私は思う。
でもね、梅の香りの香水とか、人工物ってあんまりないんです。
哀しきかな文明社会。
されど、美しきかな我が人生。