酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

SAYONARA FOREVER (shame of J-POP to come)

J-POPが憎くてたまらない。けれども愛している。

というのは僕にとっては切実ではないけれど決してわからなくはないし、この2人にはきっと切羽詰まった大問題なのだろうという話。

 

LOVE SPREAD - Myrtle-Wyckoff - YouTube

 

 

ブルックリンで活動するLOVE SPREADというこの2人組にとっては、J-POPなんてきっとダサくてイヤで仕方ないけれど、それでも日本で育ってしまったがゆえにどうしても心の底から嫌いになれないでいるのだろう。でなければ自分たちのアルバムの副題に 『shame of J-POP to come』なんて付けない。テクノに憧れてどうしてもそれになりたくてブルックリンまで行って、でも日本にルーツがあるゆえに絶対になり切れなくて、だからJ-POPを憎んでいるけれども愛している、その歪みがたまらなく好き。パリピのフリした躁鬱。

そもそもJ-POPという概念自体、昔の「歌謡曲」や「ニューミュージック」と同様に、特定のジャンルを指すわけでもない大きなくくりの雑な言葉が自然に広まっただけのもので、実態なんて無いに等しかった。けれどももう20年以上も(J-waveの番組でJ-POPという言葉が初めて使われたのが89年頃、その後94,5年までには広く普及したと言われている)、J-POPという旗のもとでやってきた以上、それなりの矜持というものが芽生えるのも当然と言えるだろう。20年ということはJ-POPという言葉が生まれてからちょうど1世代ぶんの時間が経っているわけで、つまり生まれた時からJ-POPを聴いて育った世代が今の日本のポップス界では頭角をあらわしはじめているわけだ。先に言ったJ-POPに対する諦めにも似た矜持というのは、ポストJ-POP世代とでも呼ぼうか、この世代のひとつの特徴のようにも感じられる。大森靖子なんかはあまりにも顕著な例だろう。

ただし本当に大事なのは、ポストJ-POPという自らの立場を自覚できていることで、つまり賢い人がバカのフリをするのはすごく面白いけど、バカが賢いフリをするのは聴くにたえないということ。偏差値低い人は永遠にギターかき鳴らして甘ったるい恋の歌でも歌っててください…(偏見)

 

言い忘れたけど!この記事のタイトルはLOVE SPREADのアルバムのタイトルです!LOVE SPREADさん、ツイッターのフォロワー数が僕と大差無い!流石におかしい!みんな聴いて! 

 

……“ポストJ-POP”って、なんか頭よさそうじゃない…?(ばか) ポストJ-POP特集、次回は大森靖子さまの詩の話をしたいです!

 

(つづく)

誇り高き江戸の欲望ライダー達の話、ついでにカオナシ。

皆さま「お大尽」という言葉はご存知のことと思います。

最近「元禄時代」という日本史の本を読んでいまして、そこに吉原の風俗が紹介されていました。

 いろいろ面白い話が書いてあるけど、何が良いって、お大尽にはお大尽の矜持というものがあるということです。

 

奉公人なんかだと、出世したほんの一握りが30代40代になってやっと給料が出る、妻帯ができるという具合。自分の自由になるお金をまとまって持てるということ自体が一つのステータスだったような時代で、吉原に遊びに行くというのは相当に大変なことだったそうです。

服なんかも半年も前から準備し始めて、遊び上手に手取り足取り教わりつつ、かしこに気を遣って準備取り揃え、座敷遊びなんかも他でお稽古していくそうで。

かつ太夫さんだとか、高位の芸妓には3回くらい通わないと馴染みにはなれないという。

「振りと意気地の吉原」とか言ったそうですが、中途半端な男には靡かない、権力や金銭にも目をくれない、それが吉原女の矜持だったそうで。

そんな気位を切り崩そうというんだから、吉原で遊ぶというのは度量の大きく気の長い話です。

 

そんな色男達を当時は「男伊達」とか言ったそうですが、容姿・装いに立ち居振る舞いはもちろん、商いもこなしお金も時間も自由になり、心に洒落があって、要は何につけ「遊び」がある、

欲望は大きく、とんでもない金額をつぎ込んで、かつそれらに捉われないさっぱりした心で楽しめるっていう、聞くだにハードルの高い人格が良しとされていたそうです。

 

逆に、こういうのはお大尽としては下の部類。

偽金を使って豪遊!酒池肉林の豪遊!をしておいて、千尋が靡かないとキレて大暴れのカオナシ先輩。

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何と言っても先輩は欲しがり屋でベッタベタですから。

すぐに見返りが欲しくてないと怒っちゃうし。 

その辺がいわゆる器の小ささで、先輩の醜さのポイントですね。

まあ残念ながらお大臣気質でない身としては、彼の気持ちは苦々しくもよく分かるけど。

 

顔がないというのは自分が何者か明らかでないっていうことで、強い自己認識の規範に縛られないから暴走してこういうことになっちゃうよねってことでしょうか。

そういう意味では千と千尋の物語はカオナシが自分を見つける話でもあります。

作中の役割としては欲望の権化たるカオナシが本質的には欲望に飲まれている清貧な精神で、欲望と一番遠い銭婆ところで落ち着くっていう。

ついでに、千尋が電車にくっついてきたカオナシを乗っけちゃう点なんかは、最近キーワードっぽい「ジブリ主人公の神聖性」がちょっと入っているような気がする。

 

話を戻せば、吉原なんて欲望の街って言っていいと思うけど、悪所通いをする欲望の強い人間の中でも一番上等だとされているのはそれだけ強い欲望の手綱を握れる人っていう、器の大きさってものに感じるところがあったという話。

 

まあ自分の場合はお金もなし、ぼろは纏えど心は錦ってなことになっちゃいますが、身分相応にいい遊びをしていきたいものです。

季節は春、ちらほら咲きかけてきた頃だし、まずは花見からってとこでしょうか。

花見に関しては色々と模索してスタイルを確立して行きたいところなので、花が咲いたらそんなことも書いて行きたい。

アニメーションにおける水 『未来少年コナン』からの数珠繋ぎ

未来少年コナン』をみた。いろいろあるけど、コナンについて僕の思うことはは性癖とは別の話なので別のブログに書いた。もしものすごく暇があれば読んでみてほしい。

http://nothinner.blog.fc2.com/blog-entry-125.html?sp

(蓮實重彦風のタイトルがだんだん恥ずかしくなってきた)

参考 : http://www.athenee.net/culturalcenter/special/special/hasumi_f.html

 

で、この場所でするべき性癖の話といえば、アニメーションに登場する水のことである。僕は、特に根拠は無いものの、アニメーションは水を描かなければならないくらいのことを勝手に思っている。んで、本当のことを言えばここで宮崎アニメにおける水のモチーフを紐解いてみたいと思ったのだけれど、それは気合入れて全作観なおすくらいが必要だと気付いたので、面倒だからやめる。かわりに、未来少年コナンから数珠繋ぎ的に様々なアニメにおける水の描かれかたを横断してみたい。

 

さて、コナンに登場する水といえば、第一にロケット小屋の地下に湧き出た泉であり、その他もちろん、豊かで美しくまた時には津波としてその怒りを露わにする海のことである。そしてこの水のモチーフは、宮崎駿がキャリアを通じて描き続けたものでもあると思う。

海の描写はポニョで頂点に達する。この海は、豊かで美しくかつ、人類の罪を決して許さない厳しさを内包したものであった。そして一方の、透明で美しく自然の祝福かのような宮崎駿の水としては『風立ちぬ』の2人の再会の泉を思い出すのだ。

 

このような、水の二面性を描いたアニメとしては『聲の形』をあげてみたい。それについては少し文章を書いたことがあるので、前出のブログの記事を再び。ド暇だったら読んでね。

http://nothinner.blog.fc2.com/blog-entry-121.html?sp

聲の形における水とは、その冷たさにおいて、将也をはじめとするキャラクターの抱えた罪に対して与えられる罰であり、またその暖かさにによって、作品に登場する少年少女の愚かさまでも含めて1人の人間を丸ごと包み込み肯定するものであった。

思えば山田尚子作品では『聲の形』にも『たまこラブストーリー』(たまこマーケット)にも『響け!ユーフォニアム』にも川が印象的に登場している。そのうち2作品では舞台が京都である(聲の形は岐阜)という点まで含めて、京都出身で京都造形芸術大→京都アニメーションという生粋の京都人である山田尚子の作家性とさえ言えるかと思う。特に『たまこラブストーリー』の鴨川はなかなかに忘れがたい名場面だった。あと、山田尚子は川そのものと同じくらい川にかかる橋を重視しているが、その話はまた。

 

近年のアニメで川が印象に残る作品といえば、『昭和元禄落語心中』をおいて他にない。ただし、落語心中の川は、冷たさ⇔暖かさの二面性の水や、川と川辺と橋という空間を作り出すものというよりも、緩やかに流れていき移ろいゆくものであった。つまり落語という芸能が師匠から弟子、そしてそのまた弟子へと継承されながら少しずつ変化していくことのメタファーとなっている。極端にいえば、作中で何度世代が変わっても、同じ場所に川が流れているということにこの作品の本質があるのではないか。

 

そのような記憶の蓄積としての水を扱った近年の作品としては、まず『マイマイ新子と千年の魔法』が思い出させる。あのアニメで登場する川は、千年の記憶を蓄積し同じ場所に流れ続けるものであった。しかしこの作品では水のモチーフをこれだけ一貫して扱うにも関わらず、雨が降らないのだ。僕にはこのことが重大な問題に思えてならない。少年少女の成長を描きながら、あまりにもタッチが楽観的すぎるという欠点を端的に象徴しているようではないか。

 

雨が印象に残るアニメとしては『レッドタートル ある島の物語』『おおかみこどもの雨と雪』という2本の大傑作が浮かぶ。この2本とも雨の音が素晴らしく、劇場で音に包まれる体験はとても豊かであった。

『おおかみこども』の水について言えば、狼男や雨くんが落ちた川や、台風で吹きつける暴風雨などのように厳然とした態度を保ちながら、しかし雨くんが川に落ちる前のシーンは一面の銀世界で駆け回る姉弟の歓びが満ち溢れている様が描かれていたり、台風の直撃に伴う暴風雨こそが草平と雪にとっての魔法のような時間をもたらしたように(僕の人生ベストカーテン!)、人間たちの手の遥か及ばないところからの超越的な祝福を気まぐれに施しもするのだ。

そのほか、学校に来なくなった雪ちゃんのところへ連絡帳を持ってくる草平に花が出すソーダが妙になまなましく印象に残っている。思えばこの妙に美味そうな冷たい飲み物は『ぼくらのウォーゲーム』から一貫して細田が描いてる水ではないか。この水はつまり、生物が生きて行くのに絶対不可欠なもの、あるいは命そのもののような水である。

 

たとえばアニメ『3月のライオン』では、対局シーンで何本も準備されているペットボトル飲料がそのような水として出てくる。汗をダラダラと垂らしながら文字通り命を削って対局しているプロたちは、流れ出た分の水を飲んで盤上で生き残る道を懸命に探している。やがてその水が尽きるときが決着のときとなるのは必然でしかない。

一方で『3月のライオン』には川も出てくるだろう。あの川は、主人公の“零”という名前のように、徹底して透明な水だった。どこまでも沈んでいけば静かで安らかな世界で緩やかに死ぬことができる。しかし生きる者=闘う者はそれでもがむしゃらに泳ぎ続けることをやめられない。彼の心臓の鼓動がそうさせるのだ。この水の二面性も、物語的テーマを実によく表していた。