酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

ドラゴンクエストⅪ 過ぎ去りし時を求めて

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クリアしました。大満足。

まあクリアといっても、最初のエンドロールを見ただけの段階で、この後もある程度何かあることは当然推察できるのですが、現段階での感想をメモっておこうかなと。

 

 

さて、サブタイトルとなっている「過ぎ去りし時」とは何なのか。僕は、ドラゴンクエストというシリーズそのもののことではないかと思う。シリーズを11作も重ねた2017年、はっきり言って、"勇者と剣のRPG"が流行る時代ではない。RPG黄金期とくらべて、現在のゲーム環境を見ればそんなことは明らかである。そんな過去の黄金期を「過ぎ去りし時」としてとらえる。僕には開発陣がそのことを第一に認識した上で製作しているように思え、それが本作の出発点だろうと感じる。

このような、巨大なアイコンになってしまったが故の陳腐化は、何もドラゴンクエストだけの問題ではない。長く続いたビッグタイトルが、ある時点で必ず直面する問題である。007シリーズなどが好例ではないかと思う。

もちろん、ある種の様式美として続けていくという選択肢もあるだろう。ドラクエでいうとⅧなどはそういう作品だった。PS2で広いフィールドを走り回れるような、当時としては技術的に最新のレベルで、王道的な物語に回帰した。しかしドラゴンクエストもまた、近作では新しい試みを続けている。Ⅸにおいて、初めて携帯機で完全新作をリリースし大ヒットした。Ⅹはオンラインゲーム。そして今作ⅪはPS43DSの同時リリース、そして3DS版では3Dモードと2Dモードの切り替え可能という衝撃の仕様になった。これは明らかに、今までドラクエをやったことない人、そして、昔ドラクエが好きだった人にこそプレイしてほしいという戦略だろう。では、そこまで仕掛けた今作のメインテーマとはなんだろうか。僕はそれは、「現代において"勇者"を再定義すること」だと考えている。

 

 

ここから先は物語の内容に触れますので、これからプレイする予定の方は読まないことを勧めます。

 

 

「現代において"勇者"を再定義すること」

ではまず、現代とは何か。post truth という言葉があるが、僕はそれが強く意識されているように感じる。

この作品の物語は大きく分けて4段落になっているが、特に第1段落はその色が強い。デルカタール王に会いに行くことになった勇者は、しかしそのデルカタール王によって勇者は悪魔の子であると断定され命からがら逃げ出す。その後の各エピソードも、ほとんど伝聞情報と真実の乖離みたいなものがテーマになっている。人魚のロミアのエピソードが一番の好例であり、あとは呪いの壁画のエピソード、仮面武道会、サラディーの王子の物語や、後半のホムラの里のストーリーなども、語られている物語と真実との齟齬を描いている。そしてこの構図には、もはや2017年において時代遅れとなった"勇者と剣の物語"すなわちドラゴンクエストシリーズそのものが重ね合わせられているように感じられないだろうか。

演出的には、"落ちること"が多用されているのが気になる。物語の要所で主人公は落ちる。カミュと飛び降りたり、船から落ちたり、勇者の星も落ちる。この勇者の執拗な落下は僕には象徴的な演出に思える。ドラゴンクエストⅣ,Ⅴ,Ⅵは「天空三部作」とさえ呼ばれているように、勇者といえば天空という文脈がドラクエにはある。その上で、勇者は悪魔の子であるという流言が出回った世界で、勇者を落とし続ける。あまつさえ、終盤には天空に魔王の城が浮かんでしまうのだ。

そしてもちろん、最も重大な落下は命の大樹が落ちることだ。世界の全てを記憶し、全ての命が大樹の葉となりまた生まれ変わるという設定のこの大樹が落ちた世界。それは、世界の記憶、つまりはるか過去の勇者の時代、そして自分の父母の時代、あるいは語られてきた物語、英雄や勇者の物語がもはや「過ぎ去りし時」となった、勇者不在の世界として描かれているのではないか。再三になるが、当然これには2017年という時代が重ねられている。

 

伝説的な意味での"英雄"像が機能しなくなった現代において、ヒーローが存在しうるとすれば何か。これは、近年のエンターテイメントによく見られる主題ではある。僕はたとえば最近のマーベル映画や、イーストウッドの近作『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』などを思い出す。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)はシリーズ通じて、超越した個人であるヒーローは法に管理されるべきか、という主題を置いている。『ハドソン川の奇跡』は、社会の一員として自らの職務を正確に精密に遂行する存在、という新たな形の英雄像を描いた作品であったと思う。

 

では、今回のドラゴンクエストはその点についてどのようなアプローチをとっているか。

僕は、「自らの手で」ということが鍵なのだと感じている。語られてきた物語がもはや「過ぎ去りし時」となり効力を失ったとのだとしたら、その物語を伝聞情報に留めておかずに「自らの手で」もう一度追体験する。その物語は伝説の時代の勇者の足跡かもしれないし、あるいは両親や師匠の世代の残した道かもしれない。もしくは自分が過去に出来なかったことかもしれないし、その街に伝わる物語、あるいは大樹の記憶かもしれない。思えばこのゲームは、ほとんどすべての段落がこのようなテーマを扱っている。

 そして、自らの手で物語を追体験した先で、登場人物たち全員が「勇者とは何か」を自分なりに再定義することになる。ラスダンのラスボスの手前で全員が口上を述べるところがあるが、それが彼らのたどり着いた英雄のあり方なのだ。

はじめに戻れば、これが2017年において"勇者と剣の物語"の有効性を問い直す構造になっているということで、だからドラゴンクエストの新作として意欲的だと僕は思った。もっと言えば、自らの手で追体験する、というのはゲームというメディアに極めて親和性の高い主題であって、映画とかでやってもこうはならないだろう。それも良かったと思う。

 

まだプレイするので、また。