酒は燗、肴は刺身、酌は髱

我が身の色をお隠しでないよ、着の身着のまま、ええじゃないかえ

邦アニメオールタイムベスト10 (ぽんぬふ)

このブログをやってる2人で話して、オールタイムベストを出すことになったので書きます。といっても僕はゆう君ほどにアニメを観ていないため大したリストにはなりませんがご了承を。対象としては「アニメーション」と「アニメ」を区別した上で、日本のアニメから選ぶことにします。観てなさすぎてTVアニメだけではとても10も挙げられないので、劇場作品も入れます(というか劇場作品の方が多くなりそう)。あと、アニメにおける作家の概念はかなり曖昧ですが、なんとなく一作家一作品とします(その方が選びやすいので)。順位は一応無しで。

まずはリストを

 

・映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

少女革命ウテナ

電脳コイル

おおかみこどもの雨と雪

傷物語 (三部作)

風立ちぬ

魔法少女まどか☆マギカ

キルラキル

映画 聲の形

 

 といった具合です。以下作品ごとのコメント。ネタバレはしないように努力しましたが無理でした。『まどマギ』はガッツリネタバレ、『キルラキル』はややバレ、あとは多分大丈夫だと思う。

 

 

・映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち (2012)

 

プリキュアオールスターズシリーズの4作目にして、タイトルの通りこれ以前のオールスターズからは一旦別物として再スタートしたNewStage 三部作の1作目。個人的には僕がはじめて観たプリキュアで、プリキュアを観るようになったきっかけの映画。

鉄腕アトム』以降、リミテッドアニメーションとして進化してきた日本のアニメの、いわゆるジャパニメーション的手法は既に完成したものと思いがちだが、バリバリのプログラムピクチャであるこういう映画を観ると、その技術が現在進行形でどんどん鋭くなっていることがわかるような気がする。制作期間も長くない上に、女児(とその親)をメインターゲットにするという商業的要請の中で、無駄を徹底的に省き音速のストーリー展開と高度な抽象化を達成している。

しかしそんなことよりも、僕にとってこの映画が大切なのは、何よりもその物語による。勇気を持って一歩踏み出せば誰でも“何者か”になれる、というきわめて普遍的な物語だが、そのようなテーマを扱ったフィクションでこれ以上のものを僕は知らない。ウェルメイドとは言いがたいくらいに暗さを湛えた映画で、そんな主人公のキャラクター像が完全に僕の心にブッ刺さって抜けなくなっている。暗さということで言えば楳図かずお先生の大傑作短編漫画『ねがい』を想起するほど(というかこの映画ほとんど『ねがい』なんだけどね)。そしてその彼女の、自分の中のダメなところ、弱さ、暗い衝動、不安を、受け入れ愛する強さと優しさ、その先に起きる奇跡…………(涙)

 

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー (1984)

 

アニメーションとは、作り手の意図せざるものの介入の余地が無いという意味で、閉じたメディアである。しかし同時に、その外側には(偶然にも)描かれなかった事柄が無数に存在することは疑いの余地がないだろう。では、閉じたメディアであるアニメーションによって、その外側への運動や思考をどう表すのか。この作品はその最良の例のひとつだ。

よく知らないけど、この話はカントとかその辺の時間論なんだと思う。つまり、絶対的な時間というものが存在する証拠はどこにも無く、ただ我々が時間が流れていると認識しているために時間というものがあるように感じられるのだ、というような。まず、文化祭前日という幸福な1日を繰り返してさえいれば、時間なんて流れなくても毎日幸せで楽しいじゃないか、という閉じた世界が提示される。その上で、確かに絶対的な時間など存在しないのかもしれないが、自らの選択の積み重ねの先にある時間だからこそ生きる意味があるし、その選択に対する責任がある、という一応の答えが示される。つまり、自分の選択を信じ、選択に対する責任を取り続けることこそが、閉じた世界から外側へとアクセスする(唯一の)手段である、というのがテーマなのだが、それはまさしくアニメーションの構造そのものである。アニメーションという閉じた世界で、一瞬ごとに作家によって行われている選択、すなわち何をどう動かすか、というチョイスそのものを、作家自身が信じ責任を持つことこそが、アニメーションによってその外部への思考を開く道である、と。押井がそのことに自覚的である証拠は、エンドロールのある仕掛けにはっきり表れている。押井はあの仕掛けによって、アニメーションの自閉性を理解した上でその先を我々観客に託したのだ。もちろん、その我々が生きる現実においても、一瞬ごとに選択が繰り返されていることは言うまでもない。

 

 

少女革命ウテナ (1997)

 

幾原は『輪るピングドラム』と悩むんだけれど、トータルデザインの素晴らしさと、映画版である『アドゥレセンス黙示録』の存在まで含めてこちらで。最初に順位はつけないと言ったが、ここまでの『みらいのともだち』『ビューティフル・ドリーマー』『アドゥレセンス黙示録』の三本は、日本アニメどころか全ての映画のオールタイムベストでも上位に入りそうなくらい好きなやつ。

これもまた閉鎖空間から外部を志向する物語だが、トータルデザインとパンチライン力の凄まじさによる高度な抽象化が素晴らしい。

「卵の殻を破らねば、雛鳥は産まれずに死んでいく。雛は我らだ、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ、世界を革命するために」

というのは生徒会のエレベーターのシーンで毎回繰り返される台詞なのだが、だいたいこういう話。これだけでもパンチラインの強さもわかっていただけるかと思う(どうやら引用元はヘッセらしい)。

世界(社会)における規定の役割を破壊するというテーマは、天上ウテナが女子なのに王子様に憧れて学ランを着ていることに明らかだが、この作品はその何歩も先を行っている。たとえば、決闘によって所有されるアンシーを守るために自分も決闘に参加するというウテナの抱えた矛盾であるとか、あるいは我々視聴者のウテナに対する「王子様」というイメージさえも粉々に破壊する33話とか…………(トラウマ)

エピソードごとにキャラクターを掘り下げていくのだが、特に黒薔薇編に代表されるような「きっと何者にもなれない」人々に寄り添う視線が幾原らしい。

スタッフ的にも監督幾原邦彦にメイン脚本が榎戸洋司というコンビに、幾原が集めた当時の新進気鋭のアニメーターたちが絵コンテ演出で参加しており、彼らは現在でもバリバリ活躍している(一番の出世頭は細田守だろうが)。彼ら気鋭のアニメーターたちの競うような繰り広げる演出合戦も大きなポイント。ギャグ回なんかやりたい放題で、「ウテナ」と聞いて思い浮かべるのは、意外と「カウベル」だったり「カレー」だったりするくらい。

「卵は世界だ」というその世界とは、社会といったような外的なものであると同時に、自らの感情や過去といった内的なものをも指す。『アドゥレセンス黙示録』はどちらかと言えばそちら側の話だ。この映画は本当に素晴らしくて、デイミアン・チャゼルには、『ラ・ラ・ランド』のプラネタリウムのシーン程度でドヤ顔する前に、頼むから『アドゥレセンス黙示録』の薔薇園のダンスを観てくれと言いたい。

 

 

電脳コイル (2007)

 

この作品は今回挙げた中では最後に見たのが1番古くて、多分中3くらいのときにどこかのサイトの期間限定無料配信で再見した。最初に観たのは放送当時のはずだが、その時のことはあまりおぼえておらず、全部は観ていないかもしれない。

なのであまり覚えていないのだけどそれでも、このアニメのいくつかのイメージは強烈に残っているし、優れた映像作品というのは内容以前にそういうことだと思う。し、思えば、そういう断片的な記憶についての物語だったような。「すぐそこにある異界」の描写は本気で怖い。あとは、「見る」「見られる」と「見える」「観る」についての話というか、「見える」ことが必ずしも「観る」ことへ寄与しないというか…そんな話だったような… 「痛みの先に“ほんとう”がある」というコピーもよく憶えている。にしても、放映から10年経った今、自動運転だったり眼鏡型デバイスだったり、確実に『電脳コイル』の世界へ近づいていることを実感する。是非夏にでも再見したい。

 

 

おおかみこどもの雨と雪 (2012)

 

成長した主人公によるモノローグ × 台風の夜 × 揺れるカーテン = 優!!!勝!!!という感じの映画。マザコンなので何度観ても雨くんの最後のシーンからエンドロールへの流れでギャン泣きする。

今思ったんだけど、確か大学時代の花さんの本棚にヘッセの詩集が置いてあったはずで、これ割と真面目に実質ウテナ案件なのでは?監督橋本カツヨだし。

 

 

傷物語 (2016-17)

 

 羽川翼さんのことが頭から離れないため。そういう意味では、化物語から猫物語までを緩やかに含んだ上での選出ということで。

あとは尾石達也が好きで、物語と連動して秩序の定義と破壊を繰り返すアニメーションの気持ちよさ。そして夕陽のシーンの素晴らしさ、川の輝きがあまりにも美しく、同時に輝きに満ちたこの場所この瞬間以外は死と闇が薄くしかし確実に支配していると確信させる儚さ。

 

 

風立ちぬ (2013)

 

宮崎駿で何か選ぶとしたら、『魔女宅』か『ポニョ』かこれになると思うんだが、『グラン・トリノ』人生ベストマンとしては、宮崎駿にとっての『グラン・トリノ』ということでこれを。彼の作品としてはかなり珍しく、この映画の主人公は徹頭徹尾自分のためにしか動かない。その先には、夢という名のエゴイズムの崩壊が待っているのだが、彼らはいつか訪れる崩壊を知らなかったわけではなく、分かった上で今この瞬間を精一杯生きただけなのだ。平気な顔で世界を救ってしまう宮崎駿的な主人公像よりも、ずっと好きだし気高いと思う。もちろん作家自身の姿とも多分に重ね合わせられることは言うまでもなく、これを作った駿の覚悟をも思う。なんといっても、「生きて」ははじめの脚本では「来て」だったというのだから… これはすごい話だと思う。

結局もう一本つくることにしたみたいだけどね。イーストウッドは『グラン・トリノ』の後も平気で映画を撮り続けているが、『グラン・トリノ』の先へは行っていない。というか西部劇自体もう撮る気が無いんだろう。宮崎駿はどうだろうか。『風立ちぬ』の先へ、このベストを更新するようなものを観られることを期待している。

 

 

魔法少女まどか☆マギカ (2011)

 

新房仕事2つめじゃんという声が聞こえるようだが傷は尾石の作品ということで。

鹿目まどかは「選ばない」という選択を頑なに続ける。それこそが彼女の強さであり、無知である。まどかの認知する世界の外では、暁美ほむらが、美樹さやかが、その他あらゆる時間の魔法少女が、そして何より彼女の母が、まどかを守るために闘っている。特に暁美ほむらは、まどかの選ばなかった、つまり偶然にも実現しなかった、そしてアニメというメディアになぞらえて言うならば偶然にも描かれなかった、そんな世界の偶然性に一縷の希望を託して、永遠に世界のシステムと闘い続けている。彼女が守ろうとした希望とは、鹿目まどかが笑っていられる世界、つまり彼女が無自覚に享受する平穏な日常のことである。徹底して合理的な世界のシステムと、そこで闘う人々に守られていたこと、つまり外の世界を知ったまどかは、最後の最後に一度だけ「選ばない」以外の選択をする。彼らから受け取った希望を彼らに返す、そのために世界のシステムを更に外側へ書き換えるという選択を。彼女の「選ばない」という選択によって得た希望を信じ、その希望のために払われた対価への責任を果たすために。ワルプルギスの夜の日、避難所の階段でまどかが母から独り立ちする「選択」の瞬間は何度観てもぐしゃぐしゃに泣く。

選択への信頼と責任によって外の世界を拓くという、『ビューティフル・ドリーマー』と密接に関わった(というかアニメーションにとって普遍的な)物語なのだが、その証拠に『新編 叛逆の物語』はダークサイドに堕ちた『ビューティフル・ドリーマー』という感じで、これも最高の映画なのです。『叛逆』まで含めてのベストということで。

 

 

キルラキル (2013-14)

 

これは電脳コイルとは逆に、最初に観たのが一番近い。というか先月。なので若干勢い任せの選出ではある。しかしまあこれも世界の外側の視点についてのアニメで… 僕これが本当に好き。『響け!ユーフォニアム』とかもそれだし。

プロットの基本構図は、見上げる纏流子と見下ろす鬼龍院皐月に代表されるような二項対立なのだが、その形式を維持したまま外的要因によって二項対立の中身がどんどん変化していくのがスリリングで見事。そして、閉じた世界に外のマテリアルを持ち込むものこそ、針目縫と満艦飾マコであり、そういう世界の違いを、流子や皐月のアクションシーンに付けられた過剰な動きと明らかに対比された、ある種コミカルな浮いた動きとして表現しているのもまあ気持ちいい。また、服を着る、服に着られるという見立てで、世界への支配、被支配、調和を直感的にあらわす。はじめ破滅を志向していた、つまりその先に何の未来もないことを知っていながら復讐のために世界と闘っていた纏流子が、他の人のために世界の外へ飛び出す。その過程で自分が「傷物」だと知った彼女の葛藤、そしてまた纏流子と逆の意味で自らの不完全さを思い知った鬼龍院皐月のことを思うと……(涙)  僕はこの記事で何回「不完全な存在が選択への信頼と責任によって不完全な世界の外側を志向する」話をしたでしょうか… もう僕はこれが観れれば大体満足のようです。あとこのアニメ、キャスティングがいいのか芝居の付けかたがいいのかわからないけど、キャラクターそれぞれがフックのある声で印象に残るし気持ちいい。15話までのオープニングテーマ「シリウス」がさすがに名曲。

 

 

聲の形 (2016)

 

 

The Who の『My Generation』という、若きロックンロールがその全能感を失う前、ロックンロールが幸福だった時代を象徴する名曲をオープニングテーマに採用した本作は、少年時代の全能感を失い、ついには生きることさえ否定しようとした石田将也という主人公が他者と手を取り合って互いに「生きることを手伝」いあうまでを描く。われわれはどうしようもなく不完全な存在で、つまり「傷物」で、だからこそ生きていくためには他者とのコミニュケーションが必要という話。

僕が思うに本作の本当に感動的なところは、愚かなところや美しくないところまでひっくるめた一人の人間の性質の全てを温かく包み込もうとする作り手の視線である。石田将也の例を出せば、西宮硝子を傷つけた彼の思慮の浅さや想像力の欠如による短絡的な行動は、ほんの少し角度を変えれば他者を助け、何かを与えることも出来る、ということ。(みんなが嫌いな)川井の言葉を借りれば「自分のダメなところも愛して前へ進む」ということ。そのことを(石田将也の例に戻れば)、コミニュケーションとしての投げる、行動の結果としての落ちる、そして時には冷たく時には暖かい水の二面性という、山田尚子的、というかアニメ的なモチーフで作劇しているところが素晴らしい。Blu-rayに入ってる別劇伴の inner silence バージョンが気になるし評判もいいので、いつソフトを買おうかとタイミングを伺っているところ。今度の立川の上映は行けなさそうで… いや、すぐ買えよって話なんですけどね。エンディングもいい曲。

 

 

 

・まとめ

ということでした。無自覚に適当に選んだものの、こうして並べてみると自分がどんなアニメが好きなのか一目瞭然で面白かった。

僕はアニメに限らず映画小説漫画などのフィクションが好きなのだが、その理由が現実逃避であることはかなり強く自覚している。なので基本的に僕がその手のフィクションに求める面白さは、基本的には現実とは関係のない自立的なものだと思う。フィクションはフィクションとして現実と全く独立して面白いはずだと思っているので「映画で人生が変わる」みたいな、フィクションを現実の付属品やミニチュア模型として捉える言説は大嫌いである。

なのに、いざオールタイムベストを選んだらこのザマ(笑)。もちろん、①アニメーションというメディアそのものの特性(ビューティフル・ドリーマーの項に述べた)、②日本アニメのみを対象にしていること、③そもそも観ている本数があまりにも少ないこと、などの理由はあるが、それでもあまりに似たような構造の作品、つまり「不完全な存在が、その選択への信頼と責任によって、(その不完全さゆえに他者と手を取り合って)、不完全な世界の外部を志向する」物語ばかり選んでいる。もちろん、これらの作品の登場人物に自らを投影しきっているわけではないが、彼らの姿には深く感動するし、それは、僕自身があまりにも不完全な存在であるという僕の自己認識による部分がかなりあるのは間違いない。

何はともあれ、性癖に向き合うという意味ではかなり収穫があったので、有意義な企画だったなと思います。

 

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