2017年下半期&年間初見旧作映画ベスト
大晦日ですので自己満足のために各種年間ベストを連投したいと思います。ではまず旧作映画初見編。これは上半期もやったので、下半期で10本出して、最後に年間で特に素晴らしかったのを本数決めずに選びました。
1. 動くな、死ね、甦れ!
2. ゲームの規則
3. セリーヌとジュリーは舟でゆく
4. ミニー&モスコウィッツ
5. 麦秋
6. めし
7. ワイルド・アット・ハート
8. イヴの総て
9. 愛の昼下がり
10. 戦争のはらわた
1. 動くな、死ね、甦れ! / ヴィターリー・カネフスキー (1989)
theアートシアターという旧作リバイバル公開シリーズの第2弾(第1弾はエリセ)で、今年の春にやるって決まった時からずっと楽しみにしていた。結果やはりというか、素晴らしく、2回観に行った。1度目はとにかく圧倒されてしまったのだが、2度目は劇場でまあまあ笑いが起きており、たしかに笑えるシーンも多いことに気づいた。ガガとワレルカは可愛いすぎるし、画面は圧倒的だし、自らの虚構性に自覚的で、結局すごいということしかわからない。
これはNHKBSで放映されたのを観た。絢爛豪華というか狂瀾怒濤というか。映画が巨大な装置と化し、その中で人物が勝手に動き出して止まらなくなるという現象は、映画においてしばしば起こることかと思うけれども、これはその極地で、つまり映画というものを先鋭化したひとつの形なのではないか。
3. セリーヌとジュリーは舟でゆく / ジャック・リヴェット (1974)
DVDで。これもすごかった。すごいということしかわからない系の映画。なんかライトノベルみたいだなと思った記憶がある。全体よりも、部分の瞬間的な快楽を優先するようなところが。そしてそれで映画として成立している。のかはわからないが、しかし迷路へと迷い込んで行く感覚はすさまじく、それだけでも奇跡的だし、さっきも言った虚構性というところへあり得ない角度から超絶なパンチを繰り出している。DVD欲しいが、プレミアついてて買えない。
4. ミニー&モスコウィッツ / ジョン・カサヴェテス (1971)
BSプレミアムで。いままで観たカサヴェテスの中で、1番キュート。駐車場のダンスのシーンの美しさが忘れられない。
ずっと観たことあると思ってて、再見のつもりで観はじめたら初見だったという。ひどいね。あまりにも有名な、しかし衒いのない切り返しショットもだし、空へのぼる風船のショットの寂寞も忘れがたいものになっている。
6. めし / 成瀬巳喜男(1951)
成瀬ではじめて本当にすごいと思った。ショットというより、空気が全然違う。
7. ワイルド・アット・ハート / デヴィッド・リンチ (1990)
最高の恋愛映画。掃き溜めみたいな世界に美しいものがあるとしたら、見つめ合う2人の中にだけ。リンチのこういうロマンチストなところが大好き。ラストはゲラゲラ笑いながらボロボロ泣く。
8. イヴの総て / ジョセフ・L・マンキーウィッツ (1950)
午前10時の映画祭で。すげえ面白かったみたいな感想しか出てこない自分がやや悲しいが、まあとにかくよくできていて、底知れない怖さみたいなのもあって。しかしこれが『サンセット大通り』と同じ年で賞を争ったというのは確かにすごいことだ。
9. 愛の昼下がり / エリック・ロメール (1972)
春頃はロメール観に角川シネマ有楽町に通ってた。今思ったけど、この映画『めし』に似てるかも。僕こういうの好きなのか。
リマスター版が今年公開された。これは、とにかくバランスが良いと思った。重すぎず、軽すぎず、戦争がまだそばにあった時代の映画だなあというか、今こういう映画は出てこないだろうと思う。
上半期と合わせて、特に強かったのは、
・捜索者
・動くな、死ね、甦れ!
・セリーヌとジュリーは舟でゆく
これですね。来年はこれ級の映画に10本は出会うことを目標にしたいと思います。
モニターアームと夢のような映画、あるいは映画のような夢について
モニターアームを買いました。
これのメインの用途はおそらく、省スペースのためにPCモニターやテレビを壁に設置することなのですが、この度わたくしはベッドの頭上に設置するという暴挙に踏み切りました。危険な悪用です。ほぼ脱法ドラッグです。
これにはPCとnintendo switchをつないであって、ベッドに寝ながらゼルダの伝説をやったり、将棋の中継を観たり、WEB漫画を読んだら、もちろん映画やアニメをみたりしているわけです。そしてとりわけ強いムーブは、寝る前に好きな映画を流して、観ながら眠りに落ちることなのです。
一般的に映画を観ながら寝るというのは、イケナイこととされているように思います。また、寝てしまうような映画=つまらない映画、というのも普通の認識かもしれません。しかしわたくしは、ある時から映画を観ながら寝落ちすることを恐れないようになりました。それは具体的には、イメージフォーラムのアピチャッポン特集に通っていた時です。アピチャッポンの映画を観るとわたくしはほとんど必ず寝てしまいます。たとえば渋谷ムルギーで卵入りカレーを食べた後の13時の上映だとしたら、もう寝ることは決まっているようなものです。しかし、アピチャッポンを観ながら15分や20分くらいウトウトして目がふたたび開いたときに、意識はふわふわして今がいつでどこにいるかも即座にわからない、いわば映画の中にいるかのような感覚をおぼえて以来、それこそが至福の映画体験であるとさえ思っているのです。無論、すべての映画に当てはまる現象とは思いません。たとえば『スターウォーズ』のような映画を観ながら寝落ちしたとして、夢のようにふわふわした感覚を得られるかというとわかりません。しかし確実に夢のような映画、というのは存在すると思います。どのような映画が夢のような映画なのかという詳細な分析はここではできません。しかしたとえば、明確に設定された主人公に感情移入することが求められる映画は夢から遠く、その逆に登場人物自身、自分が何者かわかっていないような映画ほど夢に近い。また、ショットの強度がドラマを凌駕するほど夢に近づく。などの条件は思い付きます。
それでは、この文章をお読みのあなた、いくつかのシーンをイメージすることができる程度には好きな映画を、何でもいいので一本思い浮かべてみてください。あなたはその映画を寝る前に再生し、半分くらいまで観たのち寝落ちしたとします。翌朝起きると当然なにも写っていないモニターがそこにあります。昨夜あなたは半分しか映画を観ていませんが、その映画はあなたが観たことのある好きな映画なので、寝落ちした後にそのモニターにどんな映像が映っていたのかをイメージすることができますね?何が言いたいかというと、わたくしは、寝ている間に再生されていた映画のシーンを思い浮かべることが、寝ている間に観ていた夢を思い出すこととほぼ等しいのではないかと思うのです。
色々な夢を観る人がいますが、年配の方ほど夢がモノクロの人が多いそうです。そして興味深いのは、カラーテレビが普及する時期を境に、カラーの夢を観る人が急増したということです。テレビが白黒だろうと、現実は昔からカラーなのに。この事実は、夢と映画がいかに近いかということをあらわしているように思います。そういえば、漫画を読みまくっている人がコマ割りの夢を観るという話も聞きますし、たまに映画を観る程度の僕でも、カットを割って劇伴の付いた夢を観ることがあります。やはり、夢を観ることは、テレビや映画や漫画といったビジュアル装置を観ることに近い脳の働きなのでしょう。夢は脳が記憶を整理している時に観るらしいので、あるいは映画の内容を思い出すこと、にこそ近いのかもしれません。
思いつくまま書き連ねましたが、言いたいことは、映画を観ながら寝ることも立派な映画体験である、ということです。映画と夢の関連といったことは、確実に誰かが深く掘り下げているだろうテーマなので、そういう文章を知っている人は教えてください。あとモニターアームはマジすごい。
「完璧な線」ってやつ【運慶展】
東博で運慶展やってますね。
良い良いと聞いて行ってきました。
康慶作品、運慶作品、運慶以後の運慶風作品、という分かりやすい構成でしたが、はっきり言ってめちゃめちゃ良かった。
まず、点数が多くない割に東博平成館を使ってるので、空間をとても広く使っている。
多くの作品が360度から見られる、隣の作品と隣接していないので人がばらけて見やすい。
これは東博ならではのすごいことです。
運慶作品を前から見て、他のものと圧倒的に何かが違う感じがしていたけれど、それがなんなのか、感性ボキャ貧の身としてはあんまりちゃんと掴みとれなかった。
シュッ、ストン、丸み、瞬間を切り出したような、、、そんな感じ。
しかし、背中に回ってびっくりです。
仏像の背中を有難がって拝む人はあんまりいないと思うので、仏像の背中ってそんなに大事じゃないと思うんですよね、基本的に、ものの成り立ちとして。
それなのに、です。
運慶のは背中がモノを言ってんですよ。
肩甲骨あたりの肉の盛り上がり、腰回りのくびれの線、そういうものがあまりに溌剌としていて、肉感的で、完璧な(いいですか、「完璧」なですよ)曲線を描いている。
あと、前で言えば出た腹の線も素晴らしかった。
完璧な、魅惑の、あまりに生き生きとした線に、本当に惚れ惚れとしました。
背中でモノ言う仏像、そりゃ前から見てもすごいよね。
圧倒的洗練はつまり、線の洗練だったってわけです。
それに気づいてから、もっぱら後ろ姿を見ていました。
後期になってくると、肉感的な線自体は少しなりを潜めて、もう少しどっしりとした、高僧とか、風格があって立派で含蓄のある作風になってきたように感じました。
でも、後ろ姿の袈裟のほんの少しの盛り上がりに、中期作品で感じたエッセンスは匂い立っていた気がする。
康慶も、運慶以後も、後ろ姿は運慶と全然違う。のっぺりして平板。
全然違うもんだなぁ、とびっくりした次第です。
日本の芸能にしろ美術にしろ、題材や技法をどうするこうするというよりは、個人の職人的な芸によっていると思う。
素晴らしい人は、使い古された題材で異次元のものを作ってしまうんだから。